※先週末から、私は「再読フェアー」実施中。
お気に入りの本、かつて感銘を受けた本を再び読むことによって、
自分の原点や、今の自分との違いを「感じる」時間にしたくて。
私は、荒川さんの紡ぐ日本語が大好きです。
「ぼく」と少し弱気な一人称を使って、
いつも丁寧な日本語で綴られる荒川さんの文章を読むと、
私もやさしい気持ちになるのです。
微笑ましい気持ちになるのです。
荒川さんのお仕事が「詩人」だからなのか、
大事な大事な「仕事道具」として、
そぉーっと、大切に、言葉を扱っていらっしゃる印象をうける。
『日記をつける』は、7-8年前に読んだ本。
けれど、私の心のすみっこにずっと残っていて、
ずっと本棚に大事に残したまま、今日に至る。
荒川さんの文章が醸し出す雰囲気が、私にそうさせる。
それくらい、大事に、大切に、本を扱いたくなる。
荒川さんの、言葉に対する優しさが、自分にも伝染する感じ。
(この本に限らず、荒川さんの本は、いつもそう)
ブログというツールの登場によって、
かつてないほど多くの人が日記を綴る時代が訪れた今、
この本は、時を超えて、示唆に富んだ書として、
静かな気づきを与えてくれるものと思う。
たとえば、荒川さんは、本の中で、こう書いている。
日記は基本的には自分のことをつけるのだから
「私のことは、私がいちばんよく知っている」
という気持ちでつけられていくものである。
自分だけが知っていること、気づいていること。
それらがおおいばりで活躍する。
それが日記だ。
その「私」はそれほどりっぱなものでなくてもいい。
どんな「私」でも、「私」がいれば日記は成り立つ。
一個の「私」を、このもやもやした世界のなかから、
もやもやした自分のなかから取り出していくためにも
日記は欠かせないものだと思う。
ここに表現されているような、
「ねぇねぇ、みんな聞いて!」「こんなこと、知ってる?」という
自慢気な気持ち(エッヘン!)が潜んでいることや、
言葉にならない気持ちが、
書くことで初めて明らかになる(そっか、私って…)、という経験は、
日記をつけたことがあれば、きっと、分かるのでは?
それら一連のことを、
こんなに平易な日本語で、
こんなに忠実に表現できるなんて、
ある意味、ズルイ!
また、本の最後はこう締めくくられている。
さて最後に、ぼくはどうして日記をつけるのだろう。
日記をつけていると、自分のなかの一日のほこりがとり払われて、
きれいになるように思う。
一日が少しのことばになって、見えてくるのも心地よいものだ。
ぼくはその気持のなかに入りたいために、日記をつけるのだと思う。
時間のすきをねらって、あるいは寝る前に、
ちょこっとつける。
あのひとときが好きだ。それがとても、ぼくには楽しいのだ。
つけるときの、そのときのために、ぼくは日記をつけるのだ。
今日も、これからつけるつもり。
気持ちを味わうために、ちょこっとつけるのだなんて、
なんて、なんて、かわいらしい。
しかも、「ちょこっと」!
荒川さんのこのちょっと臆病なような、
小さいもの、ふとした瞬間もまったく見逃さないような、
この姿が、すてき。
ときどき、浴びるといい気持ちです。
だから、ときどき、読み返すのです。