今日の日にちなんだ映画と言えば、これ。
「226」(1989年 松竹)
当時は「オールスターキャスト」という言葉があったけど、登場人物が無駄に豪華。あと、監修してるのが河野大尉のお兄さん(映画中で根津甚八が演じてる人)なので、青年将校側にややスタンスがあるのが特徴。
一方、ドキュメンタリーであればNHK特集「戒厳指令 交信ヲ傍受セヨ ~二・二六事件秘録~」(1979年2月26日放送)
2.26事件に関するドキュメンタリーの最高傑作と言っていいと思います。これを超えるドキュメンタリーは他の分野でもほぼ見たことが無い。ちなみに番組中に出てくる向坂首席検察官のお宅は僕の近所で、このあたりはまだ放送当時と同じ街並みです。
3年前、僕は226事件に直接関わった人としては最後の御存命の方と思われる方の公演会を聴きました。事件の犠牲者の一人である陸軍教育総監・渡辺錠太郎大将の次女、和子さんです。
事件当時は9歳の小学生。その後カトリックの道に入り、現在は岡山県のノートルダム清心学園の理事長をしておられます。226事件の話を聞こうと思って公演会にいったのですが、事件そのものの話よりも、渡辺さんがその後直面した「赦す」ということへの葛藤の話が深く心に残ったのを覚えています。
PCの中に当時の公演の速記録が残っていたのを見つけました。歴史をやっていた人間の性格でこういう時には必ずメモを取ってしまう癖があり、手書きで速記したのを後で打ち直したんだと思います。なにぶん速記なので読みにくい上につじつまが合わないところもあるかもしれませんが、興味があればどうぞ。
平成21年3月8日(日)14:00~15:40 渡邊和子氏 講演会(杉並区立郷土博物館)【速記】
<2.26事件のこと>
・父(渡邊錠太郎)と母と3人で川の字になって寝ていた。
・朝、5時頃には母は起床して家事をしていた。なので、寝間の雨戸は既に開いていた。
・6時頃、襲撃があった。
・父は押し入れからピストルを出して、自分(和子)に母親のところへ行くように言った。(これが最後の言葉となった)
・母は玄関で反乱軍が押し入ってくるのを懸命に防いでおり、相手にしてくれなかったので、再び父のいる寝間へ戻った。父は目線で机の裏に隠れるように言った。
・反乱軍は玄関を破壊できないので、庭へ回り、雨戸の開いていた寝間へ侵入した。(指揮官の一人、安田少尉は渡辺邸の近所に住んでいて、間取りを知っていたようだった)
・軽機関銃が父を射撃した。足を狙っていたようだった。机の影から除くと、機関銃と父の両方が見えた。
・反乱軍が父にとどめをさして帰ったあと、部屋は肉片、骨片、血だらけだった。雪の上に赤い血が点々とついていたのをよく覚えている。
・渡辺邸を襲撃した部隊は、齋藤内大臣を襲った後、渡辺邸へ向かっていた。齋藤邸を出発したのは5:40頃らしく、なぜ何の連絡も警告も渡辺邸に無かったのか、今でも謎である。
・家には電話室があって、電話があった。電話が鳴れば大きな音がするはずなので気付いたはずだが、私には記憶がない。
・家の2回に護衛の憲兵が二人いたが、救援に1階へ降りてくることはなく、2件隣の長女(姉)の家に父を避難させることもなかった。この理由もよくわからないが、姉からは「滅多なことをいうものではない」と釘を刺されていたし、今となっては過ぎたことである。
・結局、父の最後を看取ったのは自分一人だったということになる。
・事件後、殺されたとされていた岡田首相が実は生きていて、秘書官の松尾大佐が代わりに殺されていたというニュースを見て、目の前で殺されたにも拘わらず、父がひょっこりあらわれるのではないかとも思ったりした。
・なぜ父は殺されなければならなかったのか、逃れることはできなかったのかと考え続けてきたが、ずっと後年になって、やはりあそこで逃げなかったのは父らしくてよかったとも思えるようになった。
<その後のこと>
・戦後、2,26事件から30周年の時に、名古屋のテレビ局から出演依頼があった。気は進まなかったが、澤地久枝さんに進められて出ることになって、テレビ局へ行った。そうしたら、自分に何のことわりもなく、当時の反乱軍の人(市川の人?)が一人呼ばれていた。会話のあろうはずもなく、気まずい空気になったので、テレビ局の人がコーヒーを出してきた。朝だったし、コーヒーは好きだったので、飲んで気持ちを落ち着けようとカップを持って口に運んだが、どうしても飲むことができなかった。自分は今まで、事件についての感想を求められると「反乱軍には彼等なりの正義があったのだろうし、命令で動いただけの人も多いだろうから、今更恨むとか憎むとかいう気持ちはない」と答えてきたが、いざ反乱軍の人本人を目の前にした瞬間、気持ちが高ぶってしまって、コーヒー一杯飲めなくなっている自分に気付き、今までの言葉がいかに口だけのきれい事だったか、修行の足り無さに愕然としたが、やはり自分には父の血が流れているのだとも思った。
・さらに40周年の時、河野大尉のお兄さんの河野司(仏心会)さんから手紙をいただき、青年将校達が銃殺刑された7月11日に、事件の犠牲者の法要を行っているので、是非出席されたいという手紙をもらった。やはり気が進まなかったが、意を決して岡山から上京し、会場のお寺(麻布:賢宗寺)で法要に参加した。参席者をあれこれ紹介してもらったが、気分は晴れず、法要が終わったので帰ろうとしたら、澤地さんから「シスター、せっかく東京までいらっしゃったのですから、これから(青年将校の)お墓参りに行きませんか。お花とお線香は用意してあります。」と誘われた。そこで、境内のお墓へ行った。お花とお線香を捧げ、お祈りをして振りかえると2人の男性が、涙を流して立っていた。聞けば、2人は渡辺邸を襲撃した高橋少尉と安田少尉の弟達だった。彼等は「本来であれば、我々のほうが先に渡辺大将のお墓にお参りすべきところ、先に我々の肉親へお参りいただきましてまことにありがとうございました。これで、私たちにとっての2.26事件がようやく終わります。是非渡辺大将のお墓を教えてください。お参りさせていただきたいのです」ということだったので、父のお墓(多磨霊園)を教えた。それからお盆とお彼岸には、父の墓は綺麗に清掃され、花も生けられるようになった。もちろん、この二人がやってくれているのである。このことが縁でこの二人とは手紙をやり取りする中になったが、今まで自分は被害者意識に凝り固まり、自分だけが被害者だと思いこんできたが、この2人も肉親が反乱軍という烙印を押され、いままで40年間どんな苦しみをかかえて生きてきたのかについて、はじめて気がつくことが出来た。そうして初めて赦すという言葉の意味がわかったような気がした。
<父・渡辺錠太郎のこと>
・愛知の貧しい家の生まれで、小学校4年までの学歴しか無いにもかかわらず、士官学校を受験した。役場の人には3回追い返されたが、なんとか受けさせてもらえ、合格した。
・その後勉強して陸軍大学校にも入ったが、誇りに思うと共に郷里の人を見返す気持ちもあったらしく、郷里の親戚とはその後親しくはなかった。
・山県元帥の副官を2度務めたが、元帥から「渡辺は万事こなせるが、書だけはだめだ」と言われて発奮し、書も書けるように練習を重ねた。
・欧州に赴任した時の教訓として、航空機の発達を実感し、帰国後「歩兵も騎兵も航空機の威力の前には無力」と力説して回ったため、左遷されたがその後陸軍上層部も航空機の威力を認め、航空本部長として東京に呼び戻した。
・第一次大戦の教訓として、「軍隊は強くなければいけないが、戦争は絶対にしてはならない。勝っても負けても国家の疲弊は想像を絶する」と母に言っていたらしい。
・旭川の師団長(第7師団)の時に自分が生まれた。長女とは23歳年が離れており、長女も同じ年に出産したので、孫と娘が同い年と言うことになった。師団では、「師団長に孫が出来たことはこれまでもあったが、娘ができたのは初めてだ」と噂され、母は生むのを嫌がったが、父は「男が子供を産んではおかしいが、女が子供を産むのになにも恥ずかしいことはない」と言って生んでもらったのが私である。
・年を取ってからの子供だったので、軍服のポケットから恩賜の落雁を出してもらったりして、非常にかわいがってもらった。兄が二人いたが、私ばかり父がかわいがるので、父の留守中にいじめられたこともあった。
・自分が父と過ごしたのは9年間だったが、非常にかわいがってもらった記憶しかない。
<自分のこと>
・小学校は成蹊小学校へ通った。荻窪から吉祥寺へ電車で行き、そこから歩いた。担任の先生は6年間同じで、論語を1年生から覚えさせた。なので、父は私を膝に載せて一緒に論語を教えてくれた。
・当時の成蹊は、各界の有力者の師弟が通っており、教育が厳しいことで有名だったが、父は底が気に入っていたようだ。学習院には通わせたく無いとも言っていたという。
・事件の際は非常に凄惨な現場を目撃したはずだが、PTSDになるということも無かった。
・その後、四谷の双葉へ転校した。武蔵野の広くて共学の成蹊から、狭くて女子ばかりの双葉へ移らされて、相当落ち込んだ。2度ほど補導もされ、学校でかなり怒られた。
・よく、2.26事件の影響でキリスト教の道へ入ったのかと聞かれるが、自分はそういう殊勝な心がけをもっていたわけではない。生誕時のいきさつで母と折り合いが悪く、いろいろ行き詰まっていたときに、なんでもいいので変わりたいという願望があり、双葉のシスターに相談してみたところ、洗礼を受けてはどうかと誘われ、水をかけてもらうだけで変われるのならと洗礼を受けてしまった。
・昭和20年の4月であり、母は敵国の宗教にこの時期にはいるなどとんでもないと怒り、3日間口を利いてもらえなかった。(渡辺家は浄土真宗)
・その後、母から「そこまでして修道院に入ったのに、いい加減な性格がなにも治っていない」としかられた。これは、神父様に怒られたときよりも心に響いた。
<家族のこと>
・母は、父の死語、よく「お父様はお喜びにならない」という言葉でしかった。
・姉は23歳年上で、私と同い年の姪が生まれていた。双葉へ移ったとき、姪も双葉になったので、母と姉が両方来たが、先生から「今日はお婆さまとお母様が両方いらしたのね」と言われた。
・母は晩年施設にはいっており(慈生会)、最後にあったのは無くなる1ヶ月前だった。当時は岡山で仕事をしており、臨終には間に合わなかった。私は父の最後を目の前で看取ったが、母を看取ることは出来なかった。神様はこういうところでバランスを取られるのかと思った。
・「十億萬人に拾億のはゝあれど我が母に勝るはゝあらめやも」(高田一雄)という句を後に読んで、まことにそうだとしみじみ思った。
・上の兄は技術将校となり、下の兄は職業軍人となって戦後医師になったが、早くに亡くなった。
https://www2.city.suginami.tokyo.jp/library/file/210218watanabe%20joutarouten.pdf
(了)