高齢者向け数学(理科)教室の話のつづきです。

 

 

バケツの水は振り回してもなぜ落ちないのかについては、一応納得してもらったのですが、説明するのに私は「遠心力」という用語を一切使いませんでした。

 

 

これには後述するように理由があるのですけれど、生徒の皆さんは、自分たちのよく知っている「遠心力」が登場しないことに、いくらか不満を覚えたようです。そのことは、質問がなくても雰囲気でわかります。

 

 

遠心力で説明すれば、七面倒くさい理屈をこねまわさなくてもいいのに・・・・というような声が聞こえて来そうでした。

 

 

そもそも最初の段階で、「向心力と遠心力がつり合っているいるから(水は)落ちないのではないですか」という生徒さんの答えを、肯定も否定もせずに棚上げしてしまっているので、これに決着をつけておく必要がありそうです。

 

 

そこで、「皆さんがバケツに乗って、一緒に振り回されている状態なら、向心力と遠心力がつり合っていると考えてもいいのです」と、話し始めました。

 

↑ネットからお借りしました。

 

 

「この図のようにメリーゴーランドに乗っていると仮定した方が、バケツに乗っていると想像するよりも現実的ですよね」笑

 

 

 

要は観察者の視点の問題なのですが、静止(または等速直線運動)をしている外からの観察者(慣性系座標)の目と、自分自身が加速度運動をしている内からの観察者(非慣性系座標)の目では、現象の見え方が違ってくるという事実です。

 

 

自身が加速度運動をしている観察者の目からは、周囲の風景が移り変わるのを無視するなら、自分は止まっていると感じるでしょう。

 

 

しかし、メリーゴーランドの背もたれに対して、自分の背中が外側に圧しつけられているという感覚はあると思います。スピードが大きくなればなるほど、その圧力は大きくなるはずです。

 

 

「この背中に感じる力が『遠心力』です。その大きさは、向心力と同じです。だからつり合っているわけですね。バケツの水も落ちません」

 

 

「その説明の方がすっきりしています」と生徒さん。

 

 

ごもっともです。

 

 

「しかし、この『遠心力』というのは、『慣性力』と呼ばれる力の一種で、物理学では『見かけの力』とされています。今まで学んできた力の仲間とは認められていないのです」

 

 

「どうしてですか?」

 

 

「この力(遠心力)が、どこからやって来たのか不明だからです。力というのは、必ず『何が何に対して働く』という具合に、主語と目的語があります。ところが、遠心力の場合、この主語がありません。一体、何がメリーゴーランドの座席に力を及ぼしているのか不明なのです。主語がないくらいですから、作用反作用の法則も成立しません。従って『見かけの力』だということになっているんです」

 

 

シーン(笑)

 

 

私の頭の中には、日本文と英文の違いが交錯します。日本文では主語の無い文はやたらありますけれども、英文では ”It’s fine.” のように、何にでも強引に主語を持ってきますよね。主体の無い力は認めない・・・・慣性力がフェイクの力だなんて言説は、物理学が欧米で発展したせいではないのかなあ・・・・なんて話は、脱線話にしかならないんでしょうけれど。

 

 

「先生、で、一体遠心力というのは、在るんですか無いんですか?」と、きつい質問が飛び出します。

 

 

 

「うむ・・・在るといえば在り、無いといえば無い」(爆)

 

 

このあたりで、時間切れに救われました。

 

 

 

しかし、この問題――見かけの力(慣性力)とは一体何ぞや?という問題が、私に突きつけられるはめになりました。

 

 

「見かけの力なんですからね」

「はいそうですか」

 

 

高校の物理ではそう教えられて、考えもせずに〈素直に〉受け入れました。思えば深刻な疑問など発していたら、頭の悪い私には学業が間に合わなかったんです。それがおよそ学校教育というものだったのでしょう。

 

 

今からでも根本的に勉強をし直さなくてはなりません。それは私が生徒さんと同じ立場に立つということでもあります。

 

 

 

↑ネットからお借りしました。

 

 

 

(つづく)