古来、英雄豪傑とは、老獪と純情の使いわけのうまい男をいうのだ。――司馬遼太郎

 

 

 

昭和史を勉強しようとしていたのに、日露戦争にはまってしまった(笑)。

 

 

日露戦後、日本海海戦におけるT字戦法が、バルチック艦隊を撃滅した主要因だと喧伝された。だがこれは東郷や秋山(真之)の独創というわけではない。T字戦法は、当時の軍事専門家には常識であり、ひとつの理想的な戦型と認識されていた。

 

 

 

単縦陣ならT字の横棒(白矢印)の位置を占める方が有利になる。軍艦は舷側方向の砲撃がし易いため、縦棒(黒矢印)に進んでくる艦隊の先頭艦に砲火を集中できるからである。

 

 

東郷も秋山も、海戦事例を海外のそれはもとより、日本の中世水軍にまで遡って研究していた。東郷が部下に任せっきりだったなどという俗説は大嘘である。

 

 

近代海戦は19世紀中、1805年(日本海海戦のちょうど100年前)のトラファルガー海戦以降は目ぼしいものがなかった。しかし、トラファルガー海戦では時代が違い過ぎて、東郷にはあまり参考にならなかったのではなかろうか。

 

 

トラファルガー海戦

 

 

因みにトラファルガー海戦でも、ネルソンのイギリス艦隊はフランス・スペイン連合艦隊に対してT字戦法を採用している。

 

 

ただし、これは通常のT字戦法ではなく、横棒(白矢印)の連合艦隊に対して縦棒(黒矢印)で突入していく逆T字戦法で、戦力に劣るイギリス軍が連合艦隊の分断を図ろうとする捨て身の作戦であった。砲の火力が弱く射程も短い当時だったから成立したのである。戦力で劣っているわけではない東郷艦隊がそこまでする必要は全然なかった。

 

 

 

だから、近代海戦でともかくもT字戦法が一時的にせよ成立したのは、この海戦が初めてであったと言ってよい。

 

 

ところで、もし当時生成AIがあったとしたら、日本連合艦隊とバルチック艦隊の戦闘の帰趨をどのように予想したであろうか。

 

 

データの入れ方にもよるであろうが、東郷艦隊の勝算は60%ぐらいのものだったのではなかろうかと思う。(知らんけどW)

 

 

戦艦オリョールの主計水兵として戦闘に参加したノビコフ・プリボイの『ツシマ』によれば、バルチック艦隊の将兵が疲労の極にあったこと、砲撃練度の未熟さ、将校と兵の反目など、マイナス要因はいくらもあったけれども、どうもプリボイはロシア帝国への反感から、必要以上にバルチック艦隊を劣悪なものとして描き過ぎているような気がする。

 

 

無傷では済まないまでも、大半の艦船が目的のウラジヴォストークに入港することは十分可能だった。いくら将兵が疲弊していたとはいえ、戦闘は短時間で終わる。この生きるか死ぬかの決戦のときに、持てる力を出し切れないわけがないのだ。

 

 

それに、有名な「東郷ターン」の折、プリボイが記している(司馬さんも『坂の上の雲』で引用している)ように「ロジェストウェンスキイ提督に対して、一度だけは運命が笑いかけたのだった。」

 

 

実際、左145度回頭のとき、先頭艦三笠はかなりの損傷を蒙っているし、もしもう少しロシア艦隊の指揮系統がしっかりしていたなら、この15分間で彼我の立場は逆転していた可能性があったのだ。

 

 

日本海海戦

 

 

プリボイも指摘するように、ロジェストウェンスキーが、自らが乗る旗艦スワロㇷをあくまでもウラジヴォストークに遁走させることばかりを考えたことが、みすみすチャンスを逸した要因であった。

 

 

また、海軍中将・小笠原長生(ながなり)の『聖将東郷平八郎伝』によれば、ロジェストウェンスキーは「敵の為すが儘に任せてこれに応戦するより外に仕方がなかった」と述懐していたそうである。軍人としては余りに消極的で受け身の姿勢である。

 

 

一方の東郷は、戦闘終了まで吹きさらしの艦橋で指揮を執り、決して司令塔に入ろうとしなかった。将兵に対するひとつのパフォーマンスでもあったろうが、彼はここで戦死する覚悟であったのだろう。

 

 

彼我の提督の心意気の違いは、他の将兵の気力に相当のの影響を及ぼしたことは間違いない。それは、老いたる帝国と青春真っ盛りの帝国の国民の精神的エネルギーの違いであったかも知れない。

 

 

さて、現代の日本はどうなのであろうか。

 

 

 

(画像はすべてお借りしました)。