30年ほども前の話だが、鹿児島出身の同年輩の教員Mさんにこんな話を聞いたことがある。

 

 

Mさん:この間K市の教育長のW氏に会いに行ったんだが、びっくりしたよ。私が鹿児島出身だと分かったら、いきなり「我が会津藩では・・・」と真面目な顔で話し出したんだ。「あんたの薩摩藩には会津戦争で散々な目に遭った。この恨みは100年経とうが200年経とうが消えるもんじゃない」云々。

 

 

私:それってネタ話じゃないのかねえ。わざとやっているんだろう。

 

 

Mさん:ネタにしては真顔だったし、用件の処理も事務的で素っ気ないものだった。

 

 

私:人によっては、無意味なこだわりがなくはないからねえ・・・・。

 

 

 

さすがに今はそういう人はいなくなっただろうとは思うが。

 

 

 

 

明治維新後しばらくは、出身藩による差別やいさかいがあったことはよく知られている。でも、大正期ともなればそういう感情的対立はほとんどなくなっていたといってよかろうと思う。上の話は、30年前とはいえ、後にも先にも聞いたことのない異様な話である。

 

 

それにつけて思い起こすのが、薩摩出身の陸軍元帥・大山巌のことである。大山は先妻に先立たれた後に、会津藩家老の娘で鹿鳴館の花と呼ばれた山川捨松を見初め、求婚した。

 

山川(大山)捨松

 

 

山川家では大山が薩摩出身で、しかも会津戦争の折に二番砲兵隊長として鶴ヶ城を攻撃した人物であることから、結婚を謝絶したのだが、大山の熱心な申し入れもあり、また捨松もまんざらではなかったこともあって、ついにこれを許すことにしたのだった。

 

大山巌

 

 

二人は仲の良い夫婦だったようである。

 

 

大山は、どこの藩の出身だろうと差別や優遇をしない度量の大きいところがあった。明治人らしい「大人」の風格のある人物であった。(会ったことないけどWW)。

 

 

大山は、鶴ヶ城攻撃の第一日目にして、右股間に銃撃を受けて重傷を負い、後方搬送されている。大した活躍はしなかったのである。

 

 

その大山を射撃した張本人というのが、あの新島八重だったというのは、ほぼ確からしい。鶴ヶ城には射撃精度の高いスペンサー銃は1丁しかなかったというが、それを女だてらに八重が使いこなしていたのである。

 

 

新島八重

 

 

その意味でも大山は、会津には良い思い出はなかったであろうが、そんな経緯を超えて、生涯の伴侶として捨松を選んだのはさすがである。

 

 

 

美貌に惚れただけだったりして・・・・(爆)。