沢田愛美様、リブログしていただいてありがとうございます。私の書いた記事を若干異なった視点から読んでくださり、大変刺激になりました。

 

 

 

多岐に渡る議論の内、コロワク事態に言及すれば、これを問題として取り上げられるかどうかは、初期の段階での情報収集能力の有無に尽きるのではないかと思います。私がコロナパンデミックに相当のごまかしや誇張があると確信したのは半年ほど経ってからでした。付和雷同が大嫌いで、いくらか世の中を斜めに構えて見る天邪鬼根性が却って真実に近づき易くしたのだと思います。

 

 

愛美さんの場合、得られる情報の質が最高でしたね。こういう環境なら、逆に素直な性格の方が真実に接近し易かったかも知れません。でも、やはりこれを問題とし得るかどうかは、強い思考力があるかどうかにかかっていたと思います。学力はあったほうがいいけれど、むしろ地頭力の有無でしょうか。愛美さんが両方とも優れているのはよくわかっていますよ(笑)。

 

 

 

ただ、お褒めにあずかった「問題として取り上げるが故に問題となる」は、私の言葉でなくて、社会学の基本テーゼですからね(笑)。

 

 

でも、これを一ひねりすれば、新たなテーゼが生まれそうです。

 

 

即ち、「問題として取り上げられなかったことにこそ問題がある」と。

 

 

実はこれも私のオリジナルではなくて、歴史学の基本テーゼ・・・・といってよいでしょうかねえ? 常に史料的な制約に縛られている歴史学では、問題として取り上げられなかったこと、つまり書かれなかった出来事に十分配慮する必要があるのです。

 

 

一例を挙げれば、出雲国の国譲りの物語ですね、『日本書紀』では神話的表象の記述に終始していますが、実際に何があったのか、歴史家といえども想像力を逞しくしなければなりません。

 

 

皆さんのブログを読んでいても感じることはあります。「本当に書きたいことは別にあるんじゃないか?」とか、「登場して然るべきなのに、全然登場しない人物がいるのは何故なのか?」とかです。

 

 

人は、自分に都合の悪いことは敢えて無視して口にしない傾向があります。(実は私もそうです。ローンの返済に苦しんでいるとか、煙草がやめられねーとか。笑)。

 

 

で、愛美さんの小説についても、私はそんな思いを巡らしながら読んでいるのです。いや、愛美さんは、ほとんど起こった事実を包み隠さず記事にしていると信じてはいるのですけれどね。

 

 

ただ、お会いしたとき私は、「HALさんだけはよく理解できない」と申し上げました。実際そうなんです。例えば、アキラさんがいくらひね曲がった言葉を吐いたとしても、それは私の理解の範囲なんです。風愛友さんに至っては、失礼ながら私の分身であるかのような幻想を抱くことがあります。しかし、HALさんについては私の認識力の埒外にあるような感覚があることを否定できないでいます。

 

 

彼が非常に優秀な頭脳を持ち、しかも金持ちで人格高く、容姿も優れていることは事実なのでしょう。いわばスーパーマン的存在ですね。

 

 

しかし、彼のホンネというか素顔はどこにあるのか、時として愛美さんが暴露するHALさんの陰の部分を勘案しても、私には相変わらず疑問符が残ってしまいます。

 

 

こんなことは誠に言いづらいのですけれど、もしかして恋人たる愛美さんの「理想化」が関与しているのかも知れないなどと想像してしまいます。ごめんなさいね、これは小説読者たる私の率直な感想なのです。

 

 

それで気になるのが、小説中の、(HALさんと)一緒にいると「うんこもできないWW]という記述です。・・・・それって、恋人同士として辛過ぎませんかねえ。

 

 

もう20数年前になりますが、私は同人誌に、美意識過剰の一人の中年男に関する小説をユーモラスに書いたことがありました。

 

 

彼は、妻の前でもオナラをしたことがないことを誇りにしているのです。それを読んだ別の同人誌の女性(元仕事の同僚です)が、「わたし、そんな男やだなあ。だってうちじゃあ主人とオナラで会話しているようなものだもの」という評をよこしたので、大笑いしてしまいました。

 

 

きれいなところも汚いところも一括して認めあって、それでも好きだというのが「愛」というものなんじゃないかなあと私は思います。

 

 

 

脱線しますが、これに関連して想い起すのが芥川龍之介の『好色』です。色好みの平中の物語のひとつで、原典は『宇治拾遺物語』や『今昔物語集』にあります。平中は侍従の君に恋焦がれますが、彼女は彼をじらせたり袖に振ったりの繰り返しです。ついに平中は恋が成就しないものと諦め、せめて彼女の糞を見れば百年の恋も一遍に覚めるだろうと、策略を弄して彼女の糞箱を奪います。しかし、その中に入っていたのは、よい香りのする丁子の水と作り物の菓子(?)でした。侍従の君は平中の考えそうなことを先読みしていたのです。平中は一層もだえ苦しむ結果になります。

 

 

はしたない話をすみません。しかし、仮に糞箱に入っていたのが正真正銘の糞(笑)であったとしても、平中の恋は冷めることはなかったのではないかと私は想像します。だって、糞したり屁をしたりするのは生物としての人間の当然の行為であり、それが彼女の価値を減じるものでは断じてあり得ないからです。もし、糞をひることで恋が冷めるなら、それは恋ではない〈何か〉なんではないでしょうか。

 

 

 

愛美さん、「恋愛を問題として取り上げない方法」があるかですか?

 

 

まあ、特に若い人には無理でしょうね。自分の経験に照らしてもそうです。せいぜい、意志的に優先順位をつけるしか方法はないと思います。

 

 

いいんですよ。恋愛が最大の問題であるのは若者の特権であって、それを無理に否定する必要はありません。

 

 

ここでまたひとつ、連想した小説があります。谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』です。作中、大納言国経は、策略にあって最愛の若い妻を左大臣時平に献上するという失態を犯します。妻が忘れられない国経は、仏教の「不浄観」を身につけようと苦心します。この世のものはすべて汚いものだと悟ることを目標にするのです。例えば飯粒は蛆虫に似ているとか、器は骸骨のようだとか・・・・。しかし、それは成功しませんでした。

 

 

当たり前です。感情の自然性を強引に無視した修業が上手くいくはずがないのです。彼にできることは、妻への恋慕を包み隠さず表出し、大いに嘆き悲しむことだけです。そうしているうちに、感情の法則に従って恋慕の情は次第に薄らいでいくかも知れませんし、他に好きな人が現れる可能性もなくはありません。痩せ我慢にも限度というものがあるのです。

 

 

言いたいことは、客観的であるか主観的であるかは問わず、「事実」そのものを大切にするがよいということです。

 

 

 

 

長々しいだけで、まとまりのない文章になってしまいましたが、「答え」になっていたでしょうか。

 

 

                              夏島遼一 拝