私らしくない表題だと思われたでしょう?

 

 

愛美さんの金縛りの記事の影響で、私もこれについて書いてみたくなりました。

 

 

いや実は、かつてずいぶん金縛りに悩まされましたし、幽体離脱じみた体験もしました。そして、それは今も頻度は低くなりはしてもつづいているのです。

 

 

若いころには、金縛りにあうと、ギンギンギンギンという音が頭の中で鳴り響き、それは次第に大きくなるので、耐えられなくなって無理矢理目をこじ開けたものでしたが、あるとき放っておいたらどうなるのか、勇気を出して実験してみました。

 

 

すさまじい金属音は、頂点に達すると急速に減衰し、その後は静かな静かな、まるで世界と永遠の和解をしたかのような静寂が訪れました。その感覚は性的な快楽中枢と結びついているように感ぜられました。

 

 

幽体離脱じみた経験をしたのは、そんな静寂のただ中でした。はっきり「自分」が肉体を離れ、家の中をさまよい歩いたのです。そのときは怖くなって速やかに部屋に戻り、肉体に潜り込みましたけれど、その後、慣れてくると、意志的に行動を起こせるようになりました。

 

 

主に窓から脱出します。部屋は二階ですけれども、ふうわり飛び出して、家の周囲を徘徊しているうちに覚醒します。これもとても良い気分です。

 

 

そんな経験をショートショートに書きたくなって、もう8年近く前になりますが、ブログに『夢十話』(漱石先生からの剽窃です)と題して書いたシリーズものの一つにいれてみました。

 

 

これを書いたときのブログは削除してしまったのですが、物語のオリジナルは保存してあったので、この際復活させてみます。よろしかったらどうぞ。2分で読めます。

 

 

 

『幽体離脱』

 

 

 長い金縛りに遭った後、私の体はふいと宙に浮かんだ。やった、と思った。幽体離脱というやつだ。こんな現象はもう数え切れないほど体験しているが、今回の金縛りが特別苦しかっただけに、離脱は完璧なものになるだろうと期待した。

 

 

 

 私は、2階の寝室の窓からふわりと飛んで出た。軽々と着地すると、早速、前から考えていた実験に取りかかった。まずは、他の人間に私の姿が見えるかどうかという実験だ。幸い朝のこととて、私の家の前の歩道に人通りは多い。

 

 

 

 私は、手始めに、歩道で伸びをしている隣の不動産屋の社長をターゲットにした。 私は、社長の目の前に立って、「おはようございます」と言ってみた。予想した通り、彼は全く無反応だった。

 

 

 

 よし、次の実験。私は他人の体をすり抜けられるのか、というものだ。ちょうど通りかかった、おとなしそうなサラリーマン風の若い男に、私は思い切って正面からぶつかってみた。私の微かに紫がかった透明な体は、あっさりその男を通過した。彼は何事もなかったかのように駅への道を急いでいく。

 

 

 

 私は自信を得て、さまざまなイタズラをした。

 

 

 

 走ってくる車の前に飛び出してみた。私は、一瞬のうちに車と車に乗っていた運転者の体を通過して、車道に立っていた。

 

 

 

 幼稚園の園児たちの列に紛れて阿波踊りを踊った。近所の因業親父の頭を殴りつけた。美人のOLに抱きついてみた。

 

 

 

 何も問題は起こらなかった。ただ、いつもこの辺りを散歩している半分ボケた婆さんが、私のほうを見て、不思議そうにちょっと首を傾げただけだった。

 

 

 

 私は、もっとあくどいことを胸に秘めて、近くの銀行に入っていった。

 

 

 

 銀行のロビーは客で混み合っていた。私は、人混みをあっさり通過すると、カウンターの向こうに踊り込んだ。女子行員が数え終わった札束がテーブルの上に乗っている。私は、それを鷲摑みにしようとした。しかし、何度試みても手は空しく札束を通過するだけだった。

 

 

 

 そこで私は初めて当たり前のことに気がついた。私は、他の人間にとっては完璧に無意味な存在なのだということを。

 

 

 

 私は、愕然としてロビーの長椅子にへなへなと坐り込んだ。もう早く家に帰り、寝床に横たわっている肉体に戻ろうと思った。

 

 

 

 そのとき、私の肩を叩く者があった。振り返ると、杖を突いた相当に高齢の老人が立っていた。老人の姿は、私と同じように、ほとんど透明な紫色をしていた。老人は、優しい笑みを浮かべながら尋ねた。

 

 

 

「新しいお方のようですが、お弔いはいつでしたかな?」

 

 

 

 

(2016年1月21日)