「木尾子さんにどうしてあのとき4回目は打つなと言えなかったんだろうなあ」と私がぼやくと、娘がこんなことを言った。
「それは仕方ないよ。誰もが熟慮した上で決定したことなんだから、外からどうこう言っても受け入れられるものじゃないよ」
「それはそうかも知れないけれど、ダメ元でも言っておかなくてはならなかった」
「そうするだけの愛が足りなかったってことね」
「・・・・・」(ぎゃふん)
その通りだと思う。娘がもし、どうしても打つんだと言ったなら、私はぶん殴ってでも止めようとしただろう。それが効果があるかどうかは別として。
思い出すのは、学生時代に読んだ『チボー家の人々』だ。主人公ジャックは、第一次世界大戦を何が何でも阻止しようと、オンボロ飛行機を独仏国境に飛ばし、反戦ビラを撒こうとする。
飛行機は墜落し、重傷を負ったジャックはスパイと疑われ、自軍の手で殺される。
「馬鹿なやつだ!」というのが、その瞬間の私の正直な感想だった。そこにはある種の嫉妬の感情が関与していたことも確かである。とてもオレにはできないことを彼はやろうとしたのだ・・・・。
その「馬鹿なやつ」が半世紀を経ても私の心の片隅に居座りつづけているという事実は、まさに作者マルタン・デュ・ガールの芸術上の勝利を意味するのであろう。
「愛ゆえに人は苦しまねばならぬ」とは、『北斗の拳』のサウザーの言葉である。表題はそれをもじった。
そうなのだ、本当に愛してしまったなら、命を賭けて・・・・は大げさであったとしても、自分の評判や体裁など構っていられなくなるはずだ。たとえ悪者と思われようとも、行動を起こさなければ済まなくなるだろう。
いや、「愛ゆえに・・・」などと高尚なことを言わなくてもいいのだ。我らが太宰治先生は、『カチカチ山』の哀れなタヌキに名言を吐かせている。「惚れたが悪いか!」とね。
しかし、逆に愛し切れないがゆえの苦しみもまたある。心の罪に責めさいなまれるという点では、こちらの方が問題は大きいのかも知れない。人が宗教に心惹かれるのはそんなときなのだろう。