時間もないので、かなり端折って結論を急ぎたいと思います。

 

 

私は、「ふるさと」から学ぶべきは、その律義さではないかと思っています。

 

 

こんなことがありました。

 

 

海辺の観光地に行ったとき、旨い塩辛を見つけたので、これを田舎の伯父にその場から送ってあげました。晩酌をするときの絶好のおつまみになると考えたのです。

 

 

何日か後に、家にメロンがたくさん入った木箱がデーンと届いたのにはびっくり仰天でした。ポーン

 

 

塩辛なんて、せいぜい2000円ぐらいのものです。それが、いくら産地とはいえ1万円はするだろうメロンの木箱をお返しとは!

 

 

これなんですよ、田舎(じゃなくて「地方」と言った方がいいのかな?)の人の律義さというのは。

 

 

それで私はというと、「ええい、またお返しなんてしたら面倒だから、もらいっぱなしにしちまえ」とばかり、ハガキ一本でのお礼で済ませてしまいました。これなんです、都会(というか半都会)の人間のいい加減さというのは。酔っ払い

 

 

律義さ・・・・大げさな言い方をすると、「責任倫理」と名づけることができるでしょうか。この「責任倫理」の強さこそ、私たちが「ふるさと」から学ばなければならないことだと思うのです。

 

 

それは、ある意味では封建倫理の名残でもあります。封建制度の下では、とにかく人はその与えられた職分を責任をもって全うすることが強く求められましたからね。それが未だに生きているんです。

 

 

だから、あの垣田君の地主に対する屈辱的なエピソードも、彼のお母さんにしてみれば、自分の為すべきとされたことをきっちり為しただけなのです。現在の価値観からして、そんなことしなくてよかったと判断するのは方向違いなのです。

 

 

私は、地方の旧い倫理観念をそのまま真似せよと言っているのではありません。そうではなくて、そこに生きる人々のエートスから抽象されたものをこそ学べばよいと考えているのです。

 

 

というのは、おおむね都市的空間には責任倫理が希薄だからです。そこでは、成功したか成功しなかったか、露骨に言い換えれば、金が取れるか取れないかという、結果が全ての世界であり、法に引っかからなければ何をしてもいい世界なのです。グラサン

 

 

そんな責任倫理不在の空間が日本ばかりでなく、世界全体をもカヴァーしようとしています。そういう潮流に抗い、かつ闘うためにこそ「ふるさと」が存在しているのではないかと、私は思っているのです。