以前にも自分の頭で考える困難さについて書いたと思う。

 

 

考えるにしても何かとっかかりがなければ、まさに「下手の考え休むに似たり」状態になるのが落ちである。

 

 

エッセイや書簡、日記のように、とくに考える必要もなく、その時々に心に浮んだ「よしなしごと」を書きつけるだけでもモノになりうるジャンルもあるけれども、苟も何らかの「真理」に到達しようとするならば、一応は先達の考えに傾聴することから始めなければ一人よがりの論理にしかなるまい。

 

 

そして「誰を選ぶか」が、そもそもその人の見識・判断力が問われるところなのである。

 

 

 

親鸞を例にとれば、法然を師として選んだことが、その宗教思想的な能力を有することを証するものであろう。

 

 

しかし、それだけでは済まなかったのが親鸞の優秀さでもあり業でもあった。かれは流罪以降、晩年に至るまで、主著『教行信証』に手を入れ続けた。なぜそこまでこだわったのか。

 

 

私たち一般人は、親鸞といえば『歎異抄』の親鸞像に親しんでいるけれども、本当は『教行信証』を読み解かなければ親鸞の思想は解らないと思う。

 

 

その『教行信証』たるや、ほぼ全てが先達の著作の引用から成り立った書物である。初めて読んだ人には、なんだ、有名人の言葉の紹介だけではないか、親鸞自身の考えは一体どこにあるのかと、疑念を生じさせること疑いない。


 

しかし、それは違う。親鸞はただ引用しているのではない。先達と同じようなことを親鸞も考えたに違いないが、それはすでに先達が言っているよと示す誠実さがそこに窺われる。そして、そもそも親鸞がそういう先達の言葉を選択し配置したこと自体が彼の思想を構成しているのである。

 

 

もしこの書を見聞せん者は、信順を因と為し、疑謗を縁と為し、信楽(しんぎょう)を願力に彰し、妙果を安養に顕さん。 (『教行信証』後序)

 

 

「疑謗を縁と為し」・・・・はっとさせられる言葉である。いかに親鸞の思考の裡に疑念や絶望が影を落としていたかが垣間見える。絶壁のとっかかりを抑えつつ、次の危険なとっかかりに飛躍する、そんなフリークライミングじみた思想的営為を親鸞は繰り返していたのであろう。誰かの思想を自家薬籠中のものにするなどという平凡な課題ではなく、思想の関係性の解明をこそ彼は問題にしていたのだと思う。

 

 

「念仏のみ」は親鸞が究極的に至り得た境地であるという。確かにそれは正しいのだろう。しかし、「愚禿」と自嘲しながら「愚禿」になり切れない人間の、永遠に到達することのできなかった願望が「念仏のみ」ではなかったかと、私には思われてならないのである。