楠木正成の最期について一言だけ。

 

 

『太平記』では、湊川の戦いで敗れた正成は部下70余名とともに民家で自刃したことになっているが、菊池寛はこれに異を唱えている。

 

 

そんな人数を容れる民家があったと思われないし、「多分、乱軍の中に各々壮烈な戦死を遂げたであろう」としている。(『日本武将譚』)

 

 

私はこれに同意する。敗戦は決定的となっても、万々が一敵陣を突破できれば再起の可能性を期待することができる。そうでなくても、敵兵の一人でも多く斃すことが最後の務めだと思ったのではないか。正成とはそういう男だ。(←知ってるのかよポーン

 

 

そもそも湊川の戦いでは、楠木・新田連合軍は水軍を持っていなかったために不利な戦いが予想された。しかし、彼我の兵力比が1対10だったというのは大げさで、最近の研究では1対2ぐらいだったとされる。

 

 

(お借りしました)

 

 

だから正成は、決死の覚悟というよりは、上手く立ち回れば互角の戦果が挙げられると踏んだのではなかろうか。

 


決定的に勝敗を分けたのは、楠木軍と新田軍とはよく連携がとれていなかったことにあった。正成と新田義貞はあまり相性がよくなかったらしい。そのため、足利軍によって軍勢をを分断され、楠木軍は退路を断たれてしまったのである。尊氏の戦略的勝利だったといってよいだろう。

 

 

・・・・一言じゃなくなっちまったあ。

 

 

☆☆☆☆

 

 

私が湊川の戦いから想起するのは、1944年5月~8月にかけて行われたビアク島の戦いである。母方の叔父(22歳)がこの戦闘で戦死し、靖国神社に祀られた。

 

 

ほとんど玉砕であったが、生存者の証言では、とても米軍の火砲・戦車に対抗できず、無駄死にが多かったという。さらに多くの兵が飢餓のために命を失ったそうだ。

 

 

(お借りしました)

 

 

そんなリアルな証言に接して、親族の多くは戦死した叔父を憐み、「○○ちゃん、さぞかしおなかが空いて苦しかったことでしょう」とか、「○○ちゃんは、お母さんと呼びながら死んだのかも知れない」などと想像していた。

 

 

しかし、母だけは弟の死をそういう風に捉えなかった。「○○ちゃんは、天皇陛下万歳!と叫んで突撃して死んだのよ。あの子なら絶対にそうしたと私は信じている」と言った。

 

 

・・・・事実は分らない。もはや分かりようがない。残るのは親族のそれぞれの思いだけだ。そして、その思いを忖度すると、私は母の言葉を無下に否定し去ることができなかった。