大江健三郎さんが3月3日に亡くなっていたそうだ。謹んでご冥福を祈る。
一つの時代が終わったという感慨はある。自堕落な生活を送っていた学生時代、その作品によって魂の救いを享受させてもらったことには感謝している。
しかし、学生時代の終焉とともに、私は大江さんの作品を全く読まなくなった。『個人的な体験』及び『万延元年のフットボール』あたりが小説としては最後だった。評論では『ヒロシマ・ノート』、『沖縄ノート』ぐらいまでは読んだ記憶があるが。
つまり、私はもう50年もの間、大江さんの作品は読んでいない。だから大江さんを正面から論ずる資格はないかも知れないのだが、その後の言論活動は常に耳に入って来ていたので、発言する権利ぐらいはあるだろうと思った。
私が大江さんの作品をどうして読まなくなったかというと、これ以上読んでも無駄だと思ったからだ。
大江さんの作品は思想が優っている。戦後民主主義の旗手などと呼ばれ、またそれを自認し、サルトル的な政治参加を実践する行き方が、どうも作家としての創造力の乏しさを隠蔽するような作用をしているのではないかと思った。
勿論、それで済ませないところが大江さんの頭の良さなのであり、人類学の成果から示唆をうけたのだろうが、例えば『万延元年のフットボール』における「辺縁系」への共感は、さすがに機を見るに敏である。だが私は、そこにインテリゲンツィアの逆コンプレックスを感じてしまうのだ。
露骨に言ってしまえば薄っぺらいのである。そのインテリ特有の薄っぺらさを、晦渋な文章によって包み隠しているように思われてならなかった。
同じ「辺縁系」を描いても、中上健次の作品は重厚でありながらも外在的な思想の関与は微塵も感じられない。そして何よりも「辺縁系」を背負い込もうとするような隠微な苦衷がない。背負い込まないから、おどろおどろしい人間像が却って爽やかな印象を与える。
大江さんは戦後民主主義なる思想を脱却できなかったのだ。その俄か作りの思想によって若くして最高水準の作品をものしてしまったが故の、逆説的な不幸を見る思いがする。