合唱団「ももしき」のグループラインで、ソプラノさんの一人が「水戸に行って一日楽しんできたわあ」とトークしていた。
「梅はきれいでしたか?」と訊いたら、「えっ、梅? どうだったろう??」だって。←梅見に行ったんじゃなかったのかい!
「梅までは見ず、ですか?」と返したのだが、そのユーモアはわからなかったみたいだ(笑)。
そういえば、昨年末の忘年会でO1君とO2君と私で、2月に水戸に行こうという話になったのだが、その後二人からは音沙汰がない。水戸の梅は今が盛りとのことなので、いくらか気を揉んでいるのだが、こちらから積極的に誘うまでの誘引力はない。
水戸は一度も行ったことがないので、何かの折に訪れたいとは思っていた。というのも、私の母が水戸にはかなりの思い入れがあったからなのだ。
生前の母は、自分の祖先が水戸藩士であったことに矜持の念を抱いていたようだ。ただの庶民の娘として育ったわりには、何かこうピシッとした倫理観というのか、一本筋の通った姿勢というものを持っていたと思う。私はそれが堅苦しくて嫌だったのであるが。
水戸藩士といったって、どうせ足軽に毛が生えた程度ののサンピンだろうと思った。しかし、母や本家の大叔父の話を聞くと、そうでもないらしいのだった。
私はあまり興味がなかったので、個人名や人物関係はすっからかんに忘れてしまったのだが、概要はこうである。
――元は藤田姓、徳川斉昭公に片山の姓を賜る。
「水戸の藤田といえば藤田東湖と関係あるのかい?」(少しだけ胸がときめく)
――そうよ、東湖とは親戚だったの。
「それじゃあ、藤田姓のままのがよかったじゃないか」
――いいえ、お殿様から姓を賜るなんて滅多にあることじゃないので、とても名誉なことだったのよ。
「どの程度の身分だったんだい?」
――中の上ぐらいかしら。
調べてみた。
万延元年の「水戸藩御規式帳」に大番組頭(おおばんぐみがしら)として「片山」の姓が見える。近代軍隊で言えば尉官クラスの将校だ。会社で言えば部長クラスか。
おそらく禄高は200石見当。悪くはない。いわゆる「お代官様」と同レベルだ。
幕末の水戸藩といえば、尊王攘夷を旗幟として一時は政局をも左右する力を持ったが、その後の藩内外の大混乱の収拾がつかず、明治維新の大業からは取り残されてしまった感がある。
しかも、先祖の片山某が良くも悪しくも歴史の日の当たるところで活躍したような形跡は見当たらない。多分、過激なことを好まず、保身に汲々とするような平凡な藩士であったのだろう。
その後のことはよく知らない。維新後は片山本家は水戸を離れ、群馬県で篤農家としての道を歩むことになったものと推測する。
・・・・といった事跡も、私から見れば大した意味のない歴史の些末事なのであるが、母にとってはそうではなかったらしい。
戦前に育った人間には、たとえ女系であったにしても、元「士族」の肩書は精神的な支えのようなものとして機能したのだと思われる。
――藤田東湖や中江藤樹のような立派な人になりなさい。
「うわああああ~なれるわけねえだろ!」
――努力すればなれるんです!
「そ、そうでやんすか・・・・」
そして、結局私は立派な人になるどころか、ろくでもない人間になり下がったまま年老いて、今は梅を見るために一度水戸を訪れてもいいかななどとボケかかった頭で考えている。
名のみとはいえ、春なのである。