普段は、どちらかと言えば、引っ込み思案のわたしが、ブログという、素晴らしい表現の場を得られたので、今日は、趣向を変えた試みとして、コラムのように書き連ねてみたいと思う。

(実は、子ども時代から、コラムや、エッセイを書いてみたいという願望を持っていた。)

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今回は、長文となるため、ご興味がない向き、あるいは、長文を読むことに耐性がない向きは、スルーされることをお勧めしたい。

加えて、コラム的な投稿となるため、普段とは異なり、「ですます調」の表現を採用しないことを、ご了承願いたい。

また、今後も、度々続けるであろう、コラム的な投稿は、今回と同様の表現となることを、ご理解賜れば、と思う。

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SNSという仮想社会に、自らアカウントを取得してまで参画したのは、2015年7月のこと。わずか4年弱の仮想社会生活であるが、色々な方のSNS上での表現を拝読し、得た教訓がある。

それは、「ことば使いや、表現に違和感を感じる人」には、一定の距離を保ち、様子をうかがった上で、関係性を築くかどうかを慎重に決めてゆく、ということ。ほとんどは、この「違和感」が、関係性において、遠心力としてはたらいてしまうことは、残念な限りであるが…。

(ただし、日本語習得中の方。あるいは、認知機能や、言語機能に、何らかのハンディキャップを負う方などは、含まない。)

謙虚さを欠いた表現であることは、自覚しつつも、数万件の投稿、表現を読んだ経験上での分析であり、個別具体の明示は不可能であるのだが、幼い頃からの読書習慣、または、少ないながらも社会人としての経験、あるいは、SNSという仮想社会にて積んできた、つたない経験であろうとも、わたしが得てきた教訓と齟齬(そご)が生じる事例は、これまで、ほとんどなかったと記憶している。

そして、身に付けてきた「ことば」のスキルは、きっとわたしを裏切らないであろう、という確信を持ってきた。あまり自信家な方ではないが、これだけは、明言できる。

「ことば」には、あらゆるヒントが隠されている。その人の人間性、受けてきた教育の質、家族との関係性、友人との関係性、パートナーとの関係性、思考様式…などなど。

日本語能力を測定するための検定試験を受けたことはなく、また、この先も受けるつもりはない。

要するに、日本語能力に関しての権威的裏付けを持たないわたしが、紆余曲折を経て、身に付けてきた「ことば」の力が、「人を見る目」の助力となっているであろうことは、人生のうちの数少ない僥倖(ぎょうこう)であると思う。

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 ある日の「北見神社」。いつも、清々しい。

「口癖」からも、その「人となり」を推察できる。そして、その人の「口癖」が、「体調不良」と何らかの繋がりを持っているのではないか、と考えることがある。

《もちろん、「口癖」だけが原因ではないだろう。「食事法」、「生活習慣」、「生活環境」、「人間関係」、「自然環境」などが、複雑に影響するのだろうと思っている。》

それらを考慮した上で、「ことば(つまるところ、思考そのもの)」に、ヒントが隠れているのではないだろうか、と感じる出来事が多々ある。

そして、その感覚が正しいとしたならば、自ら発した「ことば」は、その人自身が引き受け、昇華していくべき課題なのだろう、と考えずにはいられない。

弊研究室を訪れてくれた方々についても、上記の考えのもと、「ことば」の端々を聞き逃すことがないよう、耳を傾けることに注力していることを、あらかじめお伝えしておきたい。

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一方で、巻き込まれないように、距離を置きたい思考法がある。一般的に、「セレンディピティー」という言葉に言い換えられたりする、「引き寄せの法則」というマジックワードが、それである。

=「引き寄せの法則」そのものを、わたしは、否定していない。詳しい理由は、後述する=

例えが極端かも知れないが、「性的被害に遭遇してしまった人」、「通り魔事件に遭遇してしまった人」、「ストーカー被害に遭遇してしまった人」…。そういった、理不尽な出来事に遭遇した方に対して、「赤の他人」である人々が、「引き寄せの法則」っぽい、トンデモ理論を適用する事例を数多く見てきて、「その主張は、いくらなんでも飛躍的すぎるのでは?」と、驚きとともに、怒りを感じることがある。

こういった場面で、「引き寄せの法則」っぽいトンデモ理論を主張をされる方は驚くほど多い。例えば、ワイドショーのコメンテーターや、それらを気取っている方々など、枚挙に暇がない。

「引き寄せの法則」なるものを適用されるべきは、行為を行った人、その人、であり、被害を受けられた方に、それらのトンデモ理論が向けられることに対しては、強烈な違和感と、怒りしか感じることができないのだ。

ご自身なり、ご自身の家族が、このような事案に巻き込まれた時に、「引き寄せの法則」っぽいトンデモ理論(このような場面では、恐らく自業自得的な発想。)を、(ご自身や、ご自身のご家族にたいして)わけ知り顔をたたえながら、雄弁かつ、饒舌に、それらのトンデモ理論を展開するとでもいうのだろうか…。わたしは、それらの人々の人間性にたいして、懐疑的にならざるを得ない。

というわけで、「引き寄せの法則」なるものに接する際には、注意深くありたいと、個人的には考えている。

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一方、前述のとおり、「引き寄せの法則」なるもののすべてを否定していない点については、ご留意願いたい。

「ある条件」さえ満たせば、「引き寄せの法則」なるものが発動するらしい。
関西の某名門大学にて教鞭を執った、知る人ぞ知る科学者が著した文献に、そのように述べられている。

ここまで、わたしの駄文をお読みいただいた奇特な方であれば、「ある条件」を見つけることは、容易なことであろうと思う。

わたしは、「ある条件」を、自ら見つけられるような方々に出会い、その方々とともに、「ある条件」について、実験してみたいと思っている。
もしも、そのような方々に、この先出会えたら、これ以上の幸せはないと思う。

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さいごに。あくまでも私見であるが、「ことば」は、それ、そのものがエネルギーであると考えている。(上記の「口癖」にも関連。)
「ことば」として放出したエネルギーは、自らに返ってくることを、肝に銘じておきたい。(「山びこ」のようなイメージ。)もちろん、自戒を込めて。

「ことば」に「負」のエネルギーを乗せて放出すると「負」のエネルギーが、「正」のエネルギーを乗せて放出すると、「正」のエネルギーが、己自身に返ってくるという法則性を持っていると考えている。(「因果応報」という概念に近かしいのではないだろうか。)

わたし自身、あまり好まないが、「言霊(ことだま)」などという表現は、ひょっとして、「ことば」に隠された、目に見えないエネルギーのことを指しているのではないのか、という直感を持っている。


だからといって『きれいな「ことば」を使いましょう!』といった、上辺だけの理想論は、バッサリと斬り捨てさせていただきたいと思う。

「美辞麗句」を並べたところで、本心から出た「ことば」でなければ、まったく意味をなさないからだ。その上、仮に、「美辞麗句」に「負」のエネルギーを乗せて放出した場合、『「ことば」が美しければ美しい』ほど、それに見合った逆ベクトルのエネルギーが返ってくるという、危険を伴う行為なのではないのだろうか。
(「陰陽の法則」「作用反作用の法則」などに共通すると推察される、見解である。)

ゆえに、無理をしてまで、美しい「ことば」を使うような行為とは、距離を置くことが肝要であるように思うのだ。

だからこそ、自由で、自然体でありたいと願うのだが、その一方で、『思ったままを「ことば」にする、正直さ』は、自ら発したエネルギーを、自ら回収するいう、壮絶な覚悟の上でのみ、表現されるべきであろうと思う。

その覚悟ができないわたしは、このような、私的なコラムを著す今日でさえ、中途半端な表現に終始する、か弱き存在であることを、自ら告白せざるを得ない。

「ことば」が溢れかえる情報化社会であるが、「ことば」が持つ「ちから」と、その「ちから」が内包している「恐ろしさ」には、十分な注意を払う必要があるのではないだろうか。

ここまで書いてきたことは、あくまでも私見である。その上で、本日のまとめとして、「ことば」とは、知性や、思考そのものであると同時に、「エネルギー」であると考える。それゆえに、上手に付き合っていきたいものだと思う。

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奇しくも、本日は「3.11」のあの日から、8年の時を経た。8年前のあの日のわたしが、このように、ブログのような、オープンソースにて、意見を表明していることは、想像を遥かに越えている事態である。いつか機会があり、また、ご興味がおありの向きがあれば、この、8年間の出来事を、少しずつでも書き連ねたいと夢想する。

日本のみならず、世界中では、毎月のように「被災地」が生まれている。戦闘に巻き込まれて、怪我をした人々や、命を落とされた方々もいる。地球上の人々の、安寧を願うとともに、亡くなられた方々のご冥福をお祈りしたい。

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今日は、告知も、宣伝も行わず、あくまでも、コラム的な投稿として、書き終えたいと思う。
いささか長文となり、また、私見を書き連ねてしまった。

僭越ながら、このような駄文、長文を、最後までお読みいただいた方々の、ご海容に感謝するばかりである。