この美しい顔をした、恐ろしい男が、私は憎くてたまらない。
彼はひ弱なくせしてより弱い者を貶めなければ生きる術を持たない、云わばダメ人間の筆頭である。その、より弱い者への仕打ちが運悪く刑法に触れる際は、まこと青少年犯罪の元凶とも呼べるべき存在なのだ。
気味が悪い本でもある。
鯉、血、入れ墨。
これらは全て共通している。
血は頻繁に登場するし、性器の描写も露骨である。
男の勃たないそれを〝腐ったバナナ〟という場面すら登場する。
西加奈子さんという作家さんには、私は遥か昔、たてつづけに数冊を味わわせていただいたあと、十数年間のブランクがあった。
それも、この類をみない独特の語彙使いと生々しいタッチのせいである。
通常の感性では起こり得ない感情があらゆる箇所に潜んでいて、時としてそれは共感からは程遠い。
帰国子女、それもかなり珍しい国での特異な育ちとバックグラウンドに起因するものでは?
そんな風に思って、若い私は敬遠したのかもしれない。
常にアイデンティティを、書く作家自らが作品のなかで手摸りをしそれを読み手にも託す漠然とした腑に落ちなさは、決して好きではなかった。
西加奈子さんが、彼女自身を何者か全く知り得ない、そんな風に深い海に放り込まれた感覚を、たしかデビュー作や初期のころの作品からは感じ取っていたのだ。
しかし今、あとがきの作者の言葉にもあるように、誠もって唯一無二の
身近な題材から生み出された「窓の魚」は
確固たる存在意義と共にあらためて強烈なインパクトをもたらした。
おなじ鯉をみようと、わたしはこんな風に感じないだろう。
それはわたしはそんな風には書けない、ということである。
多くの人がそう感じるだろう。
もしかしたら彼女の作風はずっと変わらず、
この物語の色のみならず
世への憎しみを表現した作家のひとりであると。
そう感じている。
忘れられない場面が多々ある。
その、ひ弱な青年の母親がとる恐るべき行動もそうだ。
小動物の息絶え方が、そうだ。
彼女が憎みながら世を紙の上に写し取るように、私も読み終わったあとのこの嫌悪感は、手放さないだろう。
それは同時に、敬拝でもある。