{370/Macro Prosopus光線}【天照カミ・出現】 | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

ΙΑΩ=ヤオ】(大阪府八尾市の名称)の語元に始まる日本建国史…より

 

…『秀真伝』文書に記す【天照カミ・出現】(天の岩戸物語)内容は、「神代文字(ジンダイモジ)否定論者」(日本アカデミ-系・文献史学者達)が真っ先に取りあげる『古語拾遺』齋部廣成著…大同2年=AD807年/帝平城天皇召問に応じ…)も記述(オモシロ)している。つまり、オモシロ=面白/370光線の反射を以て面白=天照の文言を用い、現在に言う「面白い」(楽しい様)と言う言語が造語されている事である。従って、従来に言う「ジンダイモジ(神代文字)・否定論」(本居宣長/伴信友/等説)は、その「ジンダイ文字・文書」(『秀真伝』)が再発見(昭和41年・1966年)された事を以て、不要の長物、即ち、間違った説である事が証明されたのである。要約すれば《【カミ代・文字】(ジンダイ文字)は存在する》

 

…ちなみに、齋部(インベ)廣成の後裔【忌部(インベ)政通】は…「神代の文字は象形也」(神代巻口訣/忌部政通・著)…と明記している。その意味する処は、「ジンダイ文字(神代文字)存在説」の肯定である。つまり、此処、神代巻口訣(忌部政通に言う「象形也」とは、「ホツマ(秀真)文字の母音記号」空=O/風=冂/火=△・水=弓・地=囗の形状を意味表す。

 

…要約すれば、タジカラオ(手力男=オモイカネの息子)が天の岩戸をこじ開け、その岩戸から現れた【ウヒルキ】(天照の幼名)の面(顔)を、370の光線」Macro Prosopus/マクロプロソプス=老日の御名・22章)で照らした。つまり、此処の文言「アマ(天)照らす」が、【天照大神】の語元(語源の意ではありません)である。ちなみに此の【天の岩戸】創作物語の元案は、【Zohar】(ゾハ-ル/アラム語文書/カバラ教義)の数値言語を取り込み設定した【フトマニ】(太占)であった。 

 

…此処に言う【Macro Prosopus】(カミの御名=ΙΑΩ/ヤオ)とは、カバラ(数秘術)教義用語でもある。此のアラム語の文言、つまり、「日の老いたる者/Macro Prosopus】(マクロプロソプス=老日の御名)の語意を和訳した言語は、『秀真伝』文書に記す「オフヒノミナ」(老日の御名=大きな顔)である。此の御親カミの頭髪から発射される「370の光線」。此の数値は、「天使/メタトロン=エノク」を意味表す数値であり、我が【日本建国・創建史】文書の作成に当っては、先ず、初期的に作成された【フトマニ・図】(太占・円形図)中心に設定した【ア・ウ・ワ】(三位一体)の言語を以て【アメノミナカヌシ】(天御中主)と命名した。

 

…何故「アメ」(天)と言うヤマト言葉(倭語)を造語したのか。それは【メネメネ、テケル、ウ・パルシン】に言う「秘儀数値/満・1190」(1萬年枠・物語)に関連し、又、此の秘儀数値「1190」は、【イエバ・シロ-/IBAShILH】(358/シロがくるであろう…創世記49・10)の成就(メシア到来finish)を意味する秘儀数値に関連する。そのヘブル語【シロ】が「ヤシロ」(社)の語元語源の意ではありませんと成る。従って、そのカミの御魂を祀る建物に対し【ヤシロ】(社)と命名し、その屋根には「アメ(天)との交信」意味する【千木】(角刺・千木も同義)を設置した。

 

…【フトマニ・図】文字配列方式は、【メネメネ、テケル、ウ・パルシン】(ダニエル書/5・24~25)の文字配列方式に起因する。又、【太占・図】の文字配列方式を用い、その「フトマニ・祝詞歌」(128・歌)の数は、完全数【④・8128】が取り込まれた事を物語る。つまり、『ホツマツタヱ』文書作成の目的は、【ユダヤ教の命題】(these/テ-ゼ…上=カミは1つ)の定義付けにあった。従って、直接的な「カミの御名」(ΙΑΩ=ヤオ)を用いるのを避け、間接的な呼称「アメ(空=天)としての【天御中主】(エノク/空這う子)と称する言語を造語した。そして、地上との交信としては、【ウツロヰ】(社と空とを交信する天使)を登場させた。従って、【太占・128祝詞歌】の「第1番目」と「第2番目」には、先ず、【ウツロヰ】(社と空のカミ)に関する祝詞歌を取り込んでいる。

 

★【太占=第1番目歌】(ア・ヤマ)…「アのヤマの、ナカウツロヰカ、アワのスナ、コホシ(①白羊宮 → ⑫双魚宮・メシア=キリスト来臨期~⑤獅子宮迄1萬9440年迄)のエナ(胞衣)の、ムネ(伊勢・外宮/9鰹木棟)ソアミケル」(12宮・合計2萬5920年)。因みに「伊勢・内宮は8鰹木」として建立した。

 

★【太占=第2番目歌】(ア・ハラ)…「アのハラハ、カミのアツマル、ヒトのハラ、シツクニワサの、ミト(30=ウツ/空)ソウミケル」(天使・ウツロヰ誕生/社と空との交信天使)。

 

…従って、【1萬年枠・物語】を包括する教義の1つが、ユダ族のエンブレム【獅子=ライオン】(シロが来る/創世記49・10~10)である。即ち、それは、黄道帯(ゾディアック)に言う、「⑤獅子宮~⑫双魚宮」(メシア来臨期・BC170年頃~AD1989年頃迄)の期間を意味表す【1萬800年】を取り込む事にあった。つまり、【日本人の聖書=Bible】と定義し作成した『ホツマツタヱ』と『ミカサフミ』文書は、此の包括数値を取り込んで完成させている。

 

 

【志紀】(大阪府八尾市志紀)の語元…

…「志貴」(磯城)の県(アガタ)主に付いて…

「志貴(磯城)の県(アガタ)」は、天皇属の直轄(チョッカツ)地。即ち、神武天皇と五十鈴姫との子供「神八井耳」(長男/カンヤヰミミ)を祖とする「志貴県主」(シキノアガタヌシ)と、その同族「志貴首」(シキノオビト)の直轄地であった。その神社(総社)の創建由緒は不詳であるが、此の地(藤井寺市惣社1丁目)に河内国府を設置した時に氏神として創建したものとされ、延喜式神名帳では大社に列す。

…志貴県主は、神八井耳の子孫。そして、その後の「太(多)朝臣」(オオノヤスマロ=太安万侶)と道祖とされ、平安初期(862年2月)に本籍を志貴郡(藤井寺市)から平安京(京都)の左京郡者に移す。更なる後年に於ける村上天皇の天暦年間(950年)頃、諸国の所経費を節減する為に設けた惣社制で、各国々の国府から最寄の有名社を「惣社」に充当し、その国内に於ける有名祭神を一ヶ所に集めて祭祀した為、此の神社を「河内・惣社の宮」と呼び、近隣の集落を惣社と称す。

 

…【太(多)氏】(オオ氏)の子孫で有名なのが【太安万侶】(オオノヤスマロ)。その「太朝臣・安万侶」(オオノ・ヤスマロ)は、古事記(和銅5年/712年)に序文を添え、三巻(上・中・下)を献上した。因みに、此の【太(多)氏】族は、多くの国造に拘わっている。

 

…「志貴の県(アガタ)主」族の拠点は、【玉櫛川】と【長瀬川】の上流(藤井寺市)で石川と合流(大和川・1703年/江戸期元禄16年・此の付近から川の付け替え工事を行い堺市に流れを変えている)する地域に位置し、川下の灌漑工事を指揮した氏族であった。つまり、初代天皇(神武)の系譜であるが故に、その【志貴の県主】氏族の家の屋根には【千木】(角刺・千木かも?)を設置(古事記・説)していた。此の【志貴の県主】一族は、大阪平野一帯の水利を以て、その開発を任されていて、大阪府八尾市に位置する「志紀」の地名は、その【志貴の県主】の呼称に起因する。氏名としては少数派に属す。

 

…元来、【志貴の県主】に言う「志貴」(シキ)の語元(語源の意ではありません)は、伊勢神宮に関連する言語で、その呼称を地名(奈良県・磯城)とする処に住していた部族名が「磯城・クロハヤ」(カワマタ姫の父)である。尚、此の地域にあって、【長髄彦・討伐】の皇軍に対し、抵抗した【兄=ヱ・シギ】(紀/ヱ・ウカシ)は討ち取られた。だが、抵抗しなかった「弟=ト・シギ」(紀/ト・ウカシ)は、タケダ(山梨県・武田)を賜った。

 

…つまり、【長髄彦・討伐】の皇軍と、その抵抗者「兄=ヱ・シギ」(ヱウカシ)との戦に先立って、皇軍は占い事を行い、その戦の歌が詠まれた。それは…

 

…「ワケツチヤマノ、ミヲヤカミ、ミカマツラセテ、アダオウツ、クニミガオカニ、イクサダテ、ツクルミウタニ………「カンカゼノ、イセノウミナル、イニシエノ、ヤエハイモトム、シダタミノ、アコヨヨアコヨ、シダタミノ、イハイモトメリ、ウチテシヤマン(5・7調歌/秀真伝・29章)。

 

…上記…漢字混じりで訳せば…「別け土山の、御親(Yahweh)カミ、3日祀らせて、仇お討つ、国見ヶ丘に、戦立て、作る御歌に………「神風の、伊勢の海成る、古(イニシエ)の、八重這い求む、細螺の、阿児よよ阿児よ、細螺の、い這い求めり、討ちてし止まん」。

 

…つまり、八尾市【志紀】の語元。その根元は、伊勢神宮に言う…「シキナミヨスルイセノクニ」(敷波寄する伊勢の国)。その「敷波」(シキナミ)、及び、「敷島」シキが語元である。

 

下記に【追記】(2017/10/14/土曜)…日ノ本ヤマト(倭→大倭→大和

 

…【志紀】(JR・志紀駅西口)地域は、其の昔、奈良地域から派生した川水が、胆駒(生駒)山の南側沿いを西(河合/長谷川等と合流)に流れ下る川水と成り、柏原(大阪府)付近から北側に向きを変えて流れ下る地域に当る。つまり、此の川水が大きく分岐(二又/八尾市二俣地域)し、【玉櫛川】と【長瀬川」】に分かれる西側地域が、現在の八尾市志紀町である。尚、此の【長瀬川】が更に分岐して成る川を【曙川】(川下は楠根川と言う)と言うが、此の川の語元(語源の意ではありません)は、物部守屋と蘇我馬子との争いに於いて蘇我馬子側に味方した聖徳太子軍が、此の川付近に到達した時間帯(明け方)の呼称に起因する。

 

…現在、「長瀬川」と「玉櫛川」に対し、「旧・大和川」と言う人もいるようですが、それは間違いです。つまり、漢字「オオワ=大和」(日ノ本の意)は後付である。

 

…「元明天皇の治世」(和銅/708年~714年)、「国名は好字(二字)を用いる事」とした。従って此の時に『日本書紀』は書き直された。ちなみに、訓語(倭語)「ヤマト」日ノ本の意)に対し、後漢の人は【倭】の字を用いていた。尚、我が国は【ヤマト】(日本)に於いてので、「国名は好字(二字)」【大倭 → 大和】と言う国字の初出である。『令集解/公式令義解』(養老令 → 701年・大宝令/詔・書式)によると…「明神御宇日本天皇詔旨・云云(ソノコトソノコト)」…と明記されている。従って、大宝律令時には未だ「大和」の当て字は無かった。ちなみに、【橘奈良麻呂の乱】直後(757年=天平宝字)に、「倭」を「和」と表し、此の文字に【】の字を冠し「大和」(ヤマト)と書き表したと考えられる。要約すれば、元初に於ける【ヤマト=日ノ本】の言語表記(AD1世紀頃)を、大宝令以降、「大倭国」(大宝令以降AD8世紀中頃)と書きかえ、更に、その後の「橘奈良麻呂の乱」後)、「大和国」と変更した。此の時、初めて「大和」の用字が現れたと考えられる。

 

…此処で何が言いたいのかと言えば、現在に用いられている【大和川】(ヤマトガワ)と言う呼称は、元来、此の大阪(古代/河内湖沿岸)には無かったのである。

 

…要約すれば、シブカワ澁川/八尾市~東大阪市)が元初のヤマアト・カワである。では、何故、「ヤマアト・川 ?」と命名したのか。それは、「ヤマ」に言う【】の語意にあり、ユダヤ教【 Y H V H 】ヤハウェ)の頭文字だからである。又、【】の語意は、「汝は存在する」意と成る。つまり、『旧訳聖書』(出・エジプト記)の【Y H V H 】に言う…「私は存在する者である」ヤハウェの存在の絶対性を語る言葉と解されるギリシア語72人訳/エゴ-・エイミ-・ホ・オ-ン/εγω ειμι ό ωv)と訳される言語に当る。そして、「ヤ・マ・ト」の【】の語意は、「ヤマ(山=カミが住す処)に登る、その第一歩」(『釈日本紀(ギ)』)の意であった。

 

…何故、ヤマアト・川】が【シブ・川】(350なのか?と言えば、「カミ代・終焉」(300年=300萬年/五十鈴木・暦)年から「50年」(ヨベル年/自由の告知年)を経た数値年を以て、「タケヒト(神武天皇)による【長髄彦・討伐開始】の年と定義しているからである。つまり、此処に言う秘儀数値300の意は、【エロヒム=Y H V H 】(ΙΑΩヤオ八尾市の語元)を意味表す数値である。

 

…従って、「ヤマアト川を溯り」…「ももなそこよろ ふちよもも なそほ(179萬2470年)へるまで おちこちも うるはふくにの きみありて あれもみだれず あめのみち よにはやるうた のりくだせ 秀真路(ホツマジ)広む あまもいわふね」(秀真伝29章)」と明記した。

 

…此処に言う【ヤマアト・川】(山=AT・川)とは、カワ(川)の語元(語源の意ではありません)を意味表す文言である。尚、そのカワ(始めと終わりの意/Bereshith&Ω)の語意は、【シフカワ】(大阪府八尾市・澁川)の意である。その【シフ・カワ】の「シフ」の語意は、「日ノ本・カミ代の終り」(50鈴木=300萬年)と、「人皇の代の始まり」を意味表す言語であり、要約すれば、「ヤマ(上/カミが住す場所)に発する水が最終値点の海に到達する迄を繋ぐ言語に対し、【カワ】(始めと終り)と命名した。何故、倭語に言う「カワ」なのかと言えば、それは『秀真伝』文書を構築する文字配列方式に関連する。

 

…以上の事柄が意味する処は、【黙示・ダニエル書】の預言が実行された事を、『秀真伝』(ホツマツタヱ)と『三笠文』(ミカサフミ)文書に明記する事に因って、【日本人の聖書】としての文書が完成した事を示す為である…

 

 

 

 

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