【倭暦】の【世界暦】レビューは【広開土王碑】(高句麗史)で在った  | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

標題…【倭暦】の【世界暦】レビューは【広開土王碑】(高句麗史)で在った

倭暦(天鈴暦)で解き明かす【広()開土王碑・欠損字】の謎… 

…現在【日本国創建史…設計図】(筆者復元図)解説文の作成中です。其の中で【ミマキイリヒコ】(後に言う崇神天皇)即位年設定方式(卑弥呼の年号鏡に起因)を知る事に因って【広()開土王碑】(A,D,414年に設置) の「欠損字」部分が見えてくる。それで其の一部分を紹介します。因みに…【好太王】(高句麗・第19代王/在位A,D,391年・辛卯/独自元号…永楽1年~ 永楽22年/A,D,412年迄)。其の【広開土王碑】設置年(A,D,414年甲寅)に於いて、【耒卯】表記が意味する処は、前王年との間(鋤…スキ)の意と考えられる。つまり、高句麗の独自的元号が用いられたのは此の年に用いられた【永楽】が初出と考えられるからです。

 

【広()開土王碑・第一面】…(建国&A,D,391~414年迄/経緯説明
惟昔始祖鄒牟王之創基也。出自北夫餘、天帝之子母河伯女郎剖卵降出生子有。聖□□□□□□命駕巡車南下路由夫餘。奄利大水王臨津言曰、我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王為。我連葭浮龜應聲即為。連葭浮龜然後造渡於沸流谷忽本西城山上而建都焉。永樂世位因遣黃龍來下迎王。王於忽本東岡黃龍負昇天顧命世子儒留王以道興治。大朱留王紹承基業□至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王二九登祚號為。永樂太王恩澤洽于皇天威武振被四海掃除□□庶寧、其業國富民殷五穀豊熟昊天不弔卅有九晏駕棄國。以甲寅年(A,D,414年・甲寅=石碑設置年)九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勳績以永後世焉。其辭曰、永樂五年歲在乙未(A,D,395)王以碑麗不息□人躬率往討過富山負山至鹽水上破其丘部洛六七百當牛馬群羊不可稱數於是旋駕因過襄平道東來候城力城北豊五備海遊觀土境田獵而還。百殘新羅舊是屬民由來朝貢。而倭以卯年A,D,391年・辛卯~396年丙申=永楽6年条の前置年に当る…高句麗史記最初の干支年表記)來渡海破百殘□□新羅新羅ヒボコ倭来朝はA,D,378年)以為臣民。以六年丙申396年王躬率水軍討科殘國軍□□首攻取壹八城臼模盧城各模盧城幹弖利城□□城閣彌城牟盧城彌沙城□舍蔦城阿旦城古利城□利城雜彌城奧利城勾牟城古模耶羅城頁□城□□城分而能羅城場城於利城農賣城豆奴城沸□□。

 

【広開土王碑・第二面】… 
利城彌鄒城也利城大山韓城掃加城敦拔城□□□城婁實城散那城□婁城細城牟婁城弓婁城蘇灰城燕婁城柝支利城巖門至城林城□□城□□城□利城就鄒城□拔城古牟婁城閨奴城貫奴城豐穰城□□城儒□羅城仇天城□□□□□其國城賊不服氣敢出百戰王威赫怒渡阿利水遣刺迫城橫□侵穴□便國城百殘王困逼獻出男女生白一千人細布千匝歸王自誓從今以後永為奴客太王恩赦先迷之御錄其後順之誠於是得五十八城村七百將殘王弟並大臣十人旋師還都八年戊戌(A,D,398年/秀真伝58年条=A,D,397年曰く…崇神天皇に因ってミマナ国成立教遣偏師觀帛慎土谷因便抄得莫新羅城加太羅谷男女三百餘人自此以來朝貢論事九年己亥(399年百殘違誓與倭和通王巡下平穰。而新羅遣使白王云倭人滿其國秀真伝/ミマキ58年条に当る)境潰破城池以奴客為民歸王請命太王恩後稱其忠誠時遣使還告以□訴十年庚子(400年教遣步騎五萬往救新羅從男居城至新羅城倭滿其中官兵方至倭賊退□□□□□□□□來背息追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戍兵拔新羅城□城倭滿倭潰城大□□□□□□□□□□□□□□□□□九盡臣有尖安羅人戍兵滿□□□□其□□□□□□□言   

 

【広開土王碑・第三面】
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辭□□□□□□□□□□□□□潰□以隨□安羅人戍兵昔新羅安錦未有身來朝貢。□國岡上廣開土境好太王□□□□寐錦□□僕句□□□□朝貢。十四年甲辰(404年而倭不軌侵入帶方界□□□□□石城□連船□□□王躬率□□從平穰□□□鋒相遇王幢要截盪刺倭寇潰敗斬殺無數。十七年丁未(407年教遣步騎五萬□□□□□□□□□城□□合戰斬殺。湯盡所稚鎧鉀一萬餘領軍資器械不可勝數還破沙溝城婁城還住城□□□□□□那□城。廿年庚戌(410年東夫餘舊是鄒牟王屬民中叛不貢王躬率往討軍到餘城而餘城國駢□□□□□□那□□王恩晉虛於是旋還。又其慕化隨官來者味仇婁鴨盧卑斯麻鴨盧□立婁鴨盧肅斯舍鴨盧□□□鴨盧凡所攻破城六十四村一千四百守墓人煙。戶賣勾余民國煙二看煙三東海賈國煙三看煙五敦城民四家盡為看煙于城一家為看煙碑利城二家為國煙平穰城民國煙一看煙十呰連二家為看煙住婁人國煙一看煙卌二溪谷二家為看煙梁城二家為看煙安失連廿二家為看煙改谷三家為看煙新城三家為看煙南蘇城一家為國煙新來韓穢沙水城國煙一看煙一牟婁城二家為看煙豆比鴨岑韓五家為看煙勾牟客頭二家為看煙永底韓一家為看煙舍蔦城韓穢國煙三看煙廿一古家耶羅城一家為看煙炅古城國煙一看煙三客賢韓一家為看煙阿旦城雜珍城合十家為看煙巴奴城韓九家為看煙各模廬城四家為看煙各模盧城二家為看煙牟水城三家為看煙幹弓利城國煙二看煙三彌舊城國煙七看煙。

以上(Google検索/抜粋)…次の【第四面】の掲載は省きます

 

        

…【広()開土王碑】(第一面/赤字は筆者説)の…卯=辛卯/A,D,391年…年が、何故、我が国(日本国/Japan)に於ける【幻の西暦1年目・起点方式】(初代神武天皇即位年を起点年と成す皇暦通歴年方式)に当たるのか?、と言えば、其れは古代ユダヤ民族の【元始・キリスト教】成立以前(B,C,2世紀初頭頃)に出現した【悔い改め宗団・思想】(B,C,6世紀初頭頃に預言を開始したエゼキエル忠告を受け容れた宗団思想)に起因する。つまり、世界歴(アダム~ノア迄の通歴年)数値を基点とする歴年方式だからです。

 

…因みに、現在の西暦年が始めて施行されたのはA,D,5世紀始め頃の事。つまり「ディオニジウスが、ロ-マキリスト教祭祀方式に基づいて過去(紀元前1年)に遡り設定し、ロ-マキリスト教に因って始めて施行された歴年方式」に対し、【Anno Domini】A,D/アノウダミナイ)と命名され、此れが現在の西暦年方式です。然し、我が国(ホツマ思想・ヤマト国/現在に言うJapan)に在っては、其れ以前、つまり紀元前3年(B,C,3年/天鈴暦55年)に於いて、既に其の方式に因るカレンダ-(コヨミ/木読)が施行されていました。其の【幻の西暦1年目起点方式・カレンダー】(神武天皇・即位紀元/暦)に因る暦年起点数値を更に溯れば…「創世記・ノア迄の歴年数値」(ヨベル書)…に辿り着きます。然るに、此の暦年(天鈴暦/アスズコヨミ)の溯り方式の存在を示唆(提示)した物語が【ホツマツタヱ】(秀真伝)文書に記述されている【カクヤヒメ】(伽具夜姫)&【ツキ・姫】(着姫/月姫)の物語(秀真伝・36章)でした。因みに【ツツキ(続き)カバヰ姫】(垂仁天皇・二人目の后カバヰ・ツキ姫)とは、「第11代・イクメイリヒコ(垂仁天皇)12年の時、ヤマト(580)姫を産んだ後に罷る」と記す。其のヤマトヒメ(倭姫)は15歳の時に始めて伊勢の地に【天照大神】を祀る大役を果たしました。其の【カバヰ・ツキ姫】物語(後の日本昔話に言う伽具夜姫の母に当たる)の元点に当るのが【ヤオ(八尾市の名称)の語元】(語源の意ではありません)で在ります。然るに、【ヤオ/ΙΑΩ】(八尾市の語元)の初出は【ホツマツタヱ】文書に記す処の【長髄彦討伐物語・5年目】の記述文面です。此の【長髄彦討伐物語】を介在させた事に因って【アスズ・コヨミ】(倭暦…天鈴暦)の暦年数値は、【元初・日数表記方式/干支】(殷の祭祀方式に用いられた日数表記方式)に対し「3年誤差」(筆者説)が生じました。此の歴然とした我が国(日本国)の暦年設定方式をバクリ(盗む)、外国に在っては敵国で在りながら取り込み使用していたのが、此処に言う【広開土王碑】(A,D,414年=甲寅に設置)に記す処の【耒卯】(辛卯/カノトウ…A,D,391年/永楽1年に始まる)でした。換言すれば、此れが…「我が日本国の暦年方式としての世界デビュ-」(アスズコヨミ/天鈴暦)と言う事に成ります。 

 

…西域からは遙か極東に位置する我が【ヤマト(日本)国家・建国起元1年目】の設定方式とは…【幻の西暦1年目起点方式・暦】神武天皇即位1年目設定方式カレンダ-)の事で、此の…【幻の西暦1年目設定方式・暦】(現在の世界暦・基点方式)…を世界で始めて考え、施行した人達とは【クムラン・秘儀教義宗団】のトップグル-プの人達でした。

 

…話を元に戻そう…此の碑文(拓本)はの文字が刻まれているにも拘わらず、其の拓本を訳した文面に在っては、単的にカノト)と書き換えられているのが大半です。此の事を以て言えば…「我が国(現在の日本国)は文献史学者不在国で在る事」…と言っているに等しい。然るに此の碑文(拓本)に因ると…「A,D,414年~過去(A,D,391年/永楽1年)へと遡った歴年史(永楽24年間/A,D,414年間)を記す」等と訳する事が出来ます。従って、スキ/鋤…畑の溝的意)の文字が当てたと解せます。然して、単に【】の文字に書き換えるだけなら…「史学者ではなく国語者の範疇」(史学者不在国・日本)でしか在りません。文献史学者と言うならば、後、一歩踏み込んだ研究(文献の選り好みは者は文献史学者とは言えません)を成すべきで在ります。

 

…【広開土王碑】に刻まれた高句麗の歴年(王名暦年)表記以外、倭国の歴年(暫定的・天鈴暦)を干支数値(元来は日数表記として開発された数値表記文字)に置き換えての【干支年・暦】(倭国暦を百済が改良して採用した暦年表記方式)を刻んでの碑文設置。其の動機を探るとすれば…「対する倭国を敗北させた事」…に最重点を置いていたと解せます。要訳すれば、当時の【倭国=日本国】が開発し、暫定暦(カミヨ物語との接続方式歴)として用いた【コヨミ】(木読/Calendar)方式(天鈴暦・ヱト/兄弟方式60年循環システム暦)のバクリ(盗む)方式歴が、其の碑文に取り込まれている【高句麗元号対応干支年表記・暦】と言う事に成ります。然し、元来、高句麗は此の【第一面~第四面】(広開土王碑/A,D,414年に設置れた)碑文の最初の処に記す高句麗建国史に在っては、肝心なる自国(高句麗)の歴年史に於いて全く【干支年表記・暦】は刻まれていませんん。然し…「対する倭人に拘わる文中」…に在っては多々、干支年を用い、そして当時の朝鮮半島の歴史的史実を確と明記する方式に始終し、又、倭国の敗北を大々的に取りあげています。此の事を思惟すれば…「倭国を貶める意」…を以て、意図的に倭国のCalendarコヨミ=木読/天鈴暦)の取り込みが図られた碑文で在ると言う事も出来ます。

 

…【第10代・ミマキイリヒコ】(後に言う崇神天皇)の章(秀真伝)に在っては【箸塚・伝説】(崇神天皇10年条)を挿入していますが、其の意味する処は【ミマキイリヒコ】(崇神天皇)即位年設定方式の元義(カバラ方式)を示唆するもので、此の図式(カバラ方式)を紐解けば…【倭暦/コヨミ≒木読】(カレンダ-)の起元(起源の意ではありません)…及び、其の継続繋数値年の示唆に在りました。要訳すれば…【卑弥呼の鏡/年号数値】+【倭百襲姫の語元数値】=【349】(崇神天皇10年=A,D,349年数値に合致=箸墓伝説を挿入した)と成す図式で在ります。此の数値年の示唆に因り、其の2年後(A,D,351年)の数値年を以て…「ミマキイリヒコ/崇神天皇・12年条」(後の天鈴暦564年+12年条=在位通歴575年に当る)に記す処の…「ハツクニ(肇国)シラス、ミマキノヨ秀真伝34章)&【ミカサフミ】(三笠文)と成す詔が発せられた事が明文化されました。従って、此の数値年を用い、後付的【ホツマ思想…カミヨ物語】(創作…倭国の1世紀~4世紀頃迄を時代背景と成す物語)を創製し、且つ、【長髄彦・討伐物語】(ΙΑΩ=八尾の語元注入物語)を介し、「タケヒト(後に言う神武天皇)即位年設定方式」の成就(finish)と成す。其の意味する処の最大的目的は…「ユダヤ教・唯一神」(YHVH)の勧請に在りました。従って、新た成る【枠・物語】(1000年枠中に神武天皇~景行天皇崩御年迄を組み込んだ暫定暦物語)が創作されたので在ります。然るに、【第10代・ミマキイリヒコ】の御名の語元(三間・東・入りヒコ)は、【皇歴年・枠物語】の【枠】の設定方式の存在を示唆する呼称(名称…ミマキ入り/三間・東入り)として命名されていたので在りました。

 

下記に【追記】(2016/11/11・木曜)…「ヤマトモモソヒメ(倭百襲姫)の語元」…

…【七支刀】(ナナツサヤノタチ)に付いては【神功皇后52年】+【干支2運120年】=【372年】(泰/太和4年=369年/制作年)に関連して設定されています。然し、此の時は未だ【任那】(ミマナ)の国号は成立していません。然るに、「任那・成立年はA,D,397年」(秀真伝・ミマキイリヒコ条を参照の事)です。然して【神功皇后・紀】に言う干支2運(120年)を加えれば史実年に当ると言う事自体、我が国には建国以来…【幻の西暦1年目起点方式・暦】…が存在していた証拠になります。然るに、尚、【ヤマト・モモソヒメ】(倭百襲姫)の語元は、即ち、換言すれば…【卑弥呼】、【倭百襲姫】、【神功皇后&應神天皇】の語元(語源の意ではありません)は、セット的数値を以ての構築(【枠・物語】を創作)を以ての造語で在りました。

 

…前の標題を…《倭暦の【世界暦】レビューは【広()開土王碑】(高句麗史)で在った》…に変更しました。因みに、【好太王】(高句麗・第19代王/在位A,D,391年・辛卯/永樂1年~A,D,412年・壬子/永樂22年迄)。其の2年後(A,D,414年)に【広開土王碑】が設置された。

 

下記に【追記】(2016年11月14日/月曜)…高句麗の【元号】に付いて

…【朝鮮】(高句麗/羅魏)に於ける歴代元号に関し、【Google】で調べてみると…「朝鮮は伝統的に後漢、及び、其の後の唐等に於ける冊封体制下」…に入っていた為、基本的には其の国の王朝暦を用いていたとされる。従って、基本的には朝鮮独自の元号は少ないと在った。然るに、【広(廣)開土王碑】(A,D,414年に設置)に話を戻せば、何故、倭国は【ホツマツタヱ】(秀真伝)&【ミカサフミ】(三笠文)文書に用いられていた【鈴木暦…サミト年】(ヱト/兄弟≒干支年表記方式…辛卯/A,D,391年=崇神天皇52年に当る) の年を契機として朝鮮半島に進出したのか?と言う事に成ります。

 

…つまり、其れ以前から倭国(ヤマト国)は既に朝鮮半島の南岸付近に拠点を置き、資源探索を行っていました。然るに…【朝鮮半島】(慶尚南道の東三洞/ムサンドン)からは「九州産(佐賀県・腰岳等)の黒曜石」が出土しています。此の事は、【ホツマツタヱ】(秀真伝・34章)文書に記述されている処の…「ツノヒトツアルヒト・物語」任那国・建国伝承物語)。尚、其れは【比売許曾神社・伝承】大阪市生野区小橋/延喜式…東生郡比売許曾神社・味耜高彦の妹、下照比売・天稚彦命の妻を祭る)…として残されています。現に、其の当時の後漢~唐に在っては、あずかり知らぬまに専売的【鉄製品】(弁辰の国々では鉄を産出す)を倭国は独自に探索し、摂取していました。然るに、鉄の探索技術は、古代ユダヤ王国時代から既に知っていて、B,C31年以降、極東移動後に於ける倭国創建を目指すに至って鉄資源探索は最も重要な国策の1つで在りました。

 

下記に【追記】(2016/11/16/火曜)…【比売許曾神社】(大阪市生野区小橋)

…昨日、【比売許曾神社】(大阪市生野区小橋)へ行って、其の由緒書を頂いてきました。然るに、『ホツマツタヱ』(秀真伝)文書に記す、「ツノヒトツアルヒト」(秀真・34章)が【比売許曾神社】(大阪市生野区小橋)に起因する女性を捜し求めて来朝したとされるが、其の来朝以前の物語の時代は何時だったかを【広開土王碑】の内容とを合わせ、又、『現存・日本書記』(刪定書的偽書)に記す「倭国が百済と友好関係」に至った経緯等も含めて考察すれば、其れは「A,D,391年=永楽1年(高句麗独自の元号)で在る」と考えられます。然るに、高句麗が始めて自国の元号(永樂1年)を用いた此の年の朝鮮半島情に在っては大変な混乱が生じていた事を窺い知る事が出来ます。

 

…下記に【追記】(2016/11/16/水曜)…【二中歴】と【天鈴暦】との接点…

…(二中歴・年代記の冒頭語句)「年始五百六十九年内、卅九年無號、付記干支、其間結縄刻木、以成政」。此の【二中歴】に言う元号は…「繼體天皇・丁酉/A,D,517年」(紀…継体天皇)の時を開始年として設定されています。然るに我が国で最初に元号を用いた氏族は【オオキミ】(大王)氏族で在った。つまり、【大王】(オオキミ)氏族とは、元初的【ヤマト国家・成立期】の支配氏族(木&実キミの語元氏族に当る)で在りました。従って、天鈴暦(アスズコヨミ)の施行基点年を知っていました。其の証拠と成るのが先述の…「二中歴・年代記の冒頭句」(年始五百六十九年内)の歴年数値です。又、此の氏族は伊勢神宮建立年(秀真伝…垂仁天皇25年~26年条)の設定数値との対応方式も知っていて、此の証拠も【二中歴】の「冒頭語句・数値」に見てとれます。然して…【オオキミ/大王…氏族】が独自的に用いていた元号が我が国の歴年史に始めて取り込まれたのは天武天皇(15年条=A,D,668年/朱鳥/式年遷宮年に当る)の時で在る。従って、『現存・日本書記』(養老四年・A,D,720年奏上)に記す孝徳天皇の時としての元号、即ち、【大化】と【白雉】の元号表記は後付で在る事、然り。其れ迄は伊勢神宮側が行っていた【式年遷宮】の行事を天武天皇側が執り行うと約束(遙拝)した事に関連している事と、又、【太神宮諸雑事記第一】を考察すれば直ぐに解る事で在ります。

 

…下記に【追記】(2016/11/17/木曜)…【式年遷宮・設定方式】…

…【式年遷宮・設定方式】…とは、先述の【ツツキ(続き)カバヰ・姫】(カバヰ・ツキ姫)の御名(日本昔話/竹取物語に言う伽具夜姫の母に当たる)に秘められた【秘儀数値】に関連し、其の始まりは、『ホツマツタヱ』(秀真伝)文書に記す処の【伊勢神宮・建立年】(垂仁天皇26年)を基点とするが、更なる其の根元は【完全数】 に在りました。然して、此の謎解きのキ-ワ-ドと成っていたのは…【トヨスキ・姫】(伊勢神宮の祭祀者)…の御名に秘められた【秘儀数値】言語です。要訳すれば、其の【ツツキ】(続き)の語意は【続き歌】(19字・歌)を語元として命名された御名(ミタケバシラ ≒ 心御柱の寸法値解読言語)で在り、次の【カバヰ】とは、【ゾハ-ル】(Zohar/創造の書)を示唆する言葉の語元(語源の意ではありません)としての造語でした。つまり、此処の部分が【ホツマツタヱ】(秀真伝)&【ミカサフミ】(三笠文)文書の【臍】ヘソ…体内と体外との接点部分)だった。従って、後年に於ける【真言密教】(隠れ神道)の開祖で在る【空海】(弘法大師)は、曼荼羅を用いて【胎蔵界】(大日如来=ウヒルキ/天照大神の幼名)と称し命名しています。つまり、【空海】は【ホツマツタヱ】(秀真伝)&【ミカサフミ】(三笠文)文書の究極的な秘密の部分を知っていたと言う事に成ります。従って、其の謎解きの鍵を西域に求め、【阿刀大足氏】(空海の母方/舅夫)をたよって遣唐使を願い出たので在りました。

 

下記に【追記】(2016/11/18/金曜)…【ヘソ/臍】(胎蔵界≒日本中央… 

…【臍】(胎蔵界≒日本中央)…の語元も数値言語で在り、其の言語の初出は【ヘソキネ】です。然るに【ヘソ杵】の娘「イカシコメ」は【第9代・開化天皇】の母(次男・オシマコ)。此の母は名前を「イキシコメ」に変え【開化天皇】の后と成り【第10代・崇神天皇】を産む。つまり…「子(開化)が母(イカシコメ=イキシコメ)を犯す罪」…に当る。此の事を批判した大物主系の人物(オオミケヌシ)は解雇され、スエ村に隠れ住む。然し、次の【第10代・ミマキイリヒコ】(崇神天皇)の時、再び召されて『ホツマツタヱ』文書を完成(著者=大直禰子/オオ・タタ・ネ・コ)させた。従って、【ホツマツタヱ】(秀真伝)&【ミカサフミ】(三笠文)文書の創作起点は此の【ヘソキネ】の語元に起因する。然るに【ヘソ】の語意は【式年遷宮】の基点数値を示唆する言語で在り、【ホツマツタヱ】&【ミカサフミ】文書の、其の創作的命題は…「ユダヤ民族・唯一神( Y H V H )の勧請」…で在った。其れを可能とする為には…「大陽を意味表す地名の存在」…が必須的制約で在った。従って、【ホツマツタヱ】&【ミカサフミ】文書は其の事を記した内容を組込み完成させ、尚、此の文書内容を前例として、【式年遷宮】の義が決行される事と成る。此の成就(finish)に付いて記した文書が【太神宮諸雑事記第一】で在ります。 

 

 

此の続きは後日と致します

 

…(ランキング↓ ↓ ↓ ←  (クリック)…宜しく…

 

 

 

      にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
           にほんブログ村