【復元・ジャパニ-ズ バイブル】(Restorat Japanese Bible)… | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

…標題復元・ジャパニ-ズ バイブル】Restoration Japanese Bible/元初・ホツマ正典
…空海は創世記の【アダム&ダビデ系譜・数値】を知っていた

…★【アダム系譜・数値】Bereshith 5・1~31) …「①アダム・930②セツ・912③エノシュ・905④ケナン・910⑤マハラエル・895⑥エレデ・962⑦エノク・365⑧メトシェラ・969 ⑨レメク・777⑩ノア・950」(生涯年数=8575)。そして…★【タビデ系譜・数値】マタイ福音書1・1~17)…「アブラハム~ダビデ迄は14代目。ダビデ~バビロン捕囚迄は14代目。バビロン捕囚~イエス迄は14代目」。

【abel = アベル】(創世記)は…初代アダムとエバ、最初の子供の「兄・カイン」(・鍛冶屋の意)の次ぎに生まれた羊飼いの「弟・アベル」(弟・息&儚さの意…エノク書)です。つまり、人間堕落の後に生まれたアダムとイブの初子の弟です」。因みに、「②セツ」は、アダムの第3子に当る。

…アベル(カインの弟)に対し、後年に書かれた『エノク書』に因れば、【息】の意として物語られ、【Qumran Sect】(クムラン宗団)思想が取り込まれています。其の、【Qumran Sect】(死海文書・1947年発見)の人達は、紀元前1世紀後半頃、神の顕現を得て、極東の此の列島(現在に言う日本列島)に移住し、先ず、其の居住地としたのは現在に言う河内(大阪府・八尾付近)で在りました。其の八尾の居住地説は何を根拠とするかと言えば、其れは…トオツクニ、ヤオのアラヒト秀真ホ33章)で在り、其の「トオツ」の意は、我が国からは遙か西域に位置する【カナン】(ユダヤ民族の地)の地に当たります。

…空海が遣唐使(20年間の勉強)に応募したのには訳が在った。広義では、「久米寺で入手した毘慮遮那経(ビルシャナキョウ)に関し、密教の細部が知りたかった」等とされるが、本質的には、【モ-セ五書】思想等を西域に求めたからで在った。其の念願(『新約聖書』…ヨハネ・福音書の存在を確かめた)がかない、規定的遣唐使の派遣年数を終えずして、僅か数年を以て、空海は突然的に帰国。そして、シリア文字(22字)を参考にして【光明真言・文字】を作成。尚、【真言密教】と称し、【隠れ神道・教典】、即ち、【276文字訳・般若心経】を作成した。然るに、【光明真言・文字】に言う、【ウン】(赤馬)の語意は、【霊】(アベル=應神天皇陵)の意を示唆しています。

…標題に言う…
復元・ジャパニ-ズ バイブル】Restoration Japanese Bible/:元初・ホツマ正典)の【復元】語意は、現在に言う【ホツマツタヱ】&【ミカサフミ】文書が編纂される以前の文書の意と致します。つまり…【代々のフミ】(大物主文書=残しフミ)の意です。其の大物主の文書に因ると…「昔、物主(後の三輪氏族の祖)、ミコトノリ、承けて作りてアワ宮(大阪府・平岡の泡輪社蔵)に、入れ置く後の代々のフミ」秀真40章)等と記されている。然して、其の当時に於ける、其の【ミコトノリ】()の発信者とは誰なのかと言う処に行き着くが、此の、モノヌシに対する其の【ミコトノリ】の発信者とは、即ち、其れは当時の権力者で在った【ヤオのアラヒト】遠ツ国・八尾のアラヒト)で在る。其の証明と成るのが、先述に言う【代々のフミ】、つまり、「大物主文書に言う【残しフミ】(文書)に対し【ミコトノリ】と記述しているからで在ります。従って、此の義を受け、作成されたのが【カミナ・フミ】(上名・文章)で在りますが、更に、神部を設置し、【ヤオ()・ヨロカミ】(崇神期・7=天鈴627年)を祀った事が【ホツマツタヱ】文書に記されています。

…然るに、上記に言う此の出雲に祀られた【ヤオ・アラヒトカミ】に対する祭祀方式とは、どんな体系に因る祭祀方式だったのかと言えば、其れは、近年に於ける考古学的発見に因って明らかに成りました。つまり…「昭和58年=1983年に発見の銅剣358本出土」(荒神谷遺跡)。及び、其れから13年後、即ち、「
平成8年=1996年に発見の銅鐸39口出土」(加茂岩倉遺跡)…の、其の…「銅剣・銅鐸の出土数値」に在ります。然るに、此の事は、『現存・日本書記』(刪定書的偽書)の「崇神天皇・60年条」(下記に記す)に記されています…
…因みに『日本書紀』(崇神天皇・60年条)に因ると…「八雲立つ、出雲梟師(タケル)が、佩ける太刀、葛篭(ツヅラ)多巻(サワマキ)、さ身無しに、 あはれ」…つまり…「ヤクモタツ、イヅモタケルガ、ハケルタチ、ツヅラサワマキ、サミナシニ、アハレ」等と記す。尚、此の歌(5・7調)に続き、更に下記の如く、此の事に対する説明文が『日本書紀』は記しています。

……
「玉菨鎮石タマモノシヅシ)。出雲人の祭る、眞種(マタネ)甘美鏡。押し羽振る 甘美御神 底寶御寶主」(ソコタカラミタカラヌシ)。山河の之水泳(ミククル)御魂(ミタマ)。静挂(シズカ)かる甘美御神、底寶御寶主」……此の文面に対し、又、「玉のような水草の中に沈んでいる石。出雲人の祈り祭る、本物の見事な鏡。力強く活力を振う立派な御神、水底の寶、寶の主、山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡、水底の寶、寶の主也…等との説明文が在る。然し、其の本質は、又、別の処に在って、従って、更に、次のような説明文が記されている。
……「是非似小兒之言。若有託言乎。於是皇太子奏于天皇。則勅之使祭」(これは小児の言葉としては似つかわしくありません。あるいは神がついて言うのであるかもしれません)。と言った。そこで皇太子は、天皇に此の事を奏上した処、直ちに勅が発せられて大神を祭らせた」…等と『現存・日本書紀』(崇神60年条)は、此のように長文を用いて其の要約文を記載しています…。

…以上の事を纏めて要訳するとすれば、やはり其れは先述の……《加茂・岩倉遺跡…銅剣&銅鐸出土個数》……に在り、其の出土個数、数値が意味する処は、【Qumran Sect】(クムラン・秘儀宗団)に起因する【神秘数値思想・教義】(数値・カバラ思想)の存在を物語る処に行き着きます。

…つまり、上記に言う祭祀方式は、古代ユダヤ民族の【脱・ユダヤ教思想】に基付く神聖的な祭祀方式だった事を物語っていて、其れは、「ミマキイリヒコ(崇神)・12年条」(4世紀中頃)の「ハツクニシラス(肇国知らす)、ミマキノヨ」(ミコトノリ…の義に関連しての祭祀方式で在った。其の【ハツクニ知らす】的、祭祀方式以前に於いては、個々の邦々が個別に行っていたのだが、中央集権的な国家体制を整えるに当っては、邦々の神道的なカミガミ(上々)は、更に、1箇所に集めての祭祀方式が採用され、其の祭祀所は出雲地域に設定された。そして、此処に始まる祭祀者としは、出雲の氏族に。又、中央集権的な国家体制をスタートさせるに当っては、其の王を【ミマキイリヒコ】(崇神)と命名された人物に委ねられた。そして、此処に始まる歴史書(編纂者は三輪氏と中臣氏)が完成し、奏上されたのは【第12代・ヲシロワケ】(景行天皇56年=天鈴暦843年)の時として【ホツマツタヱ】&【ミカサフミ】文書は記しています。

…【ミマキイリヒコ】(
崇神天皇)の即位年は、どのようにして設定されたのかと言えば、其れ迄は、【ヤオのアラヒト・カミ】(八尾のALヒト・カミ)系統の人達が、宗教的秘儀教義(年中行事)を用いての権力者で在って、従って、其の人達が設定した秘儀数値年(A,D,340年=メシアを示唆する数値)を以て設定されました。然るに、此処、【ミマキイリヒコ】の御名を以て成す、其の、【ミコトノリ】(ハツクニシラス、ミマキノヨ)の発信年、即ち、【A,D,351年】に言う其の数値は、【長髄彦・討伐物語の開始年】として用いられ、此処に其の話に遡る神話(日本神話)が創作される事と成る。つまり、現在の【ホツマツタヱ】&【ミカサフミ】文書は、其の後に編纂された文書だった事に成り、其れ以前の歴史大系書は失われた事に成ります。尚、現在の、【ホツマツタヱ】&【ミカサフミ】文書は後付的では在るが、其の意図する処は…《 日本(ヤマト)人の聖書 》…として書かれたので在りました。

…此の
当時の我が国の暦は、【ユダヤ・創世記歴】に起因する【Qumran Sect】(クムラン・秘儀宗団)独自(数値・ゲマトリア機能)の【メシア・来臨起点年暦】に接合させて成す、【ホツマ・コヨミ】(
幻の西暦1年目設定方式…暦)が用いられていました。従って、其の【幻の西暦1年目】を起点としての【メシア(340)・数値年】を用い、以て、【ミマキ】(千木&ヤマトの語元に関連する言語)と命名(造語)された、或氏族(トヨウケ系統)の者に、此れからの我が国(ヤマト)に於ける【国家】的中央集権的な政権が譲渡された。此れを以て、【ハツクニ(肇国)シラス、ミマキノヨ」B,C,351年)と言う。此の当時の時代背景を大陸方面に照らし合わせ、考古学資料とを摺り合わせれば、任那に関連する好太王碑(コウタイオウヒ)、つまり、「甲寅(414)年9月28日に設置と記す」(好太王碑)、其の碑文に刻まれた干支年号は、我が日本国(ヤマト≒ホツマ国)が当時使用していた幻の西暦1年目設定方式コヨミに言う【ヱト】(兄弟)数値方式をバクッタ(盗む)歴年表記で在ります。つまり、【好太王碑】の、其の【干支年号】つまり、「永楽6年=丙申」(A,D,396年)とは、当時の倭国(ヤマト=日本)が独自的な方式を以て設定し、用いていた用語。つまり、「幻の西暦1年目起点・設定方式」に因る暦(ヱト=兄弟)の数値年を、当時の高句麗は、自国(高句麗)の歴年数値に摺り合わせる為にバクッタ(盗む)て用いた年号で在りました。

下記に【追記】(2016/08/14)…【ミマナ≒任那国】成立方式
…【ミマナ】の語元は、当時、弁辰に属していたカラクニの「ツノヒトツアルヒト」(角・1つ在る人)が、我が国のミマキ(崇神)に接見(気比宮=福井県敦賀)を願い、来朝して来た事に起因する。其の【ミマナ】(任那)の語元は、我が国の【ミマキ・王】崇神)の御名を賜った事が語元で在る。。つまり、【ミマ・名】三間・名)が語元(ミマキ王に由来)其の語元で在る。然るに、【ミマ・名】(三間・名)が、漢字で【任那】と表記された由縁は、「于斯岐阿利叱智干岐」(『紀』…ツノガアルヒト=都怒我阿羅斯等)が、倭国と同盟国関係に在る事を、当時、高句麗の広開土王が認めたからで在る。其の証拠と成るのが、【広開土王碑】(414年に設置)の文面内容で在ります。此の【広開土王碑】に因ると…「永楽6年には、其れ迄の弁辰が消え、新に加羅()と任那が表記されている」。つまり、【任那】の「任」の字意が意味する処は…「其れ迄の弁辰を、カラクニ(加羅)が統治し、其の監督する国として【ミマ・名】に倭国(ミマキ・王)が任せている事」…等を、高句麗の其の当時の広開土王が認めていた証拠で在ります。従って、其の後、【任那】が朝鮮半島の南部等を或る意味に於いては支配していたと言っても過言では無く、然る故、【任那】が、日本府と言われる由縁で在ります。

以上…制限文字数(4000字)オ-バ-。従って、此の続きは別ブログURL…( http://erusaremu4654.jugem.jp/?eid=2 ← ドラッグ、クリックして検索)に転載し、書き足しています






…(ランキング ↓ ↓ ↓ ←  (クリック)…宜しく…

     …
                 にほんブログ村