『元始・日本語の始まり』に付いて | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!



現在の「日本語とは何か?」と言えば、紀元前後頃に普及活動が行われた【元始・ヤマトコトバ】と言う、【カミナ文字・言語】を源として、以後、歴史の変革の中から生まれる新たな文字言葉(漢字&西洋文字言語)の取り込み。且つ、育まれつつ、発達してきたのが、我が【ヒノモトクニ】(日本国)に言う、現在の我が国の言語で在ります。

…現在、我が日本の国には、【日本語の起元】(起源の意味ではありません)を研究する学問は、全く、存在致しません。現在の【国学】とは、単に、「日本の言語学」の学問であり、尚、それも、奈良時代以降、つまり、万葉仮名を基点としての学問と定義されていて、其の意味する処は、奈良時代以前の言語に関しては解らないとする。従って、奈良時代以前の言語に関しては対象外(或国学者の本に記す)とされているのが現状です。然し、万葉仮名が出来る以前から、「五七調」の歌(和歌)が存在していたの確かであります。然して、【国学】と定義するならば、我が国の言語の原点に位置する処の【和歌の起元】に対して、真っ先に、其の研究を取り込む事の方が、元来的な学問(江戸後期に始まる国学)では無いだろうかと、私は思う次第で在ります。






先に掲載したの三つの画像は、数年前、「岐阜県&長野県」、及び、「島根県」に行った時の画像です。最初の二つの画像(中と左の画像・画像の写りに因っては左右に位置する)は、岐阜県の県境付近に位置する【恵那山】の麓に存在する【恵那・神社】の【由緒書】(中の画像・画像表示に因っては右かも?)と、そして、其の神社の入り口付近に設置されている【石碑】(左の画像)です。然るに、中(左?の画像は、【恵那神社】の【由緒書】が記載されている掲示板です。此の、【恵那神社】の社名の由来は、【天照大神】が誕生した時の…其の…【褜・エナ】(胎盤の一部恵那と表記されている)…が奉納されたと言う事に起因し、名付けられた社名で在ります。尚、此処には画像を掲載していませんが、此処から少し東の、【昼神温泉】(阿智村)で一泊し、其の翌日、更なる検索と称し、行った場所は、長野県の【大御食神社】(オオミケジンジャ)でした。其の【大御食神社】には、現在も、尚、【神代文字・文献】が保存(写本伝承・落合直澄訳)されています。尚、此の阿智村の【昼神】の語元は、【天照大神】の長女(ヒルコ姫)に起因し、其の結婚相手で在った【アチ彦】の名称に由来しています。然るに、現在に言う「阿智村温泉郷」の【中馬街道】(伊那・三州・飯田街道)に位置する【阿智村】、及び、【昼神】と言う呼称(名称)の発祥は、『秀真伝』文章を初出としています。

…右画像(画像表記に因っては下かも?)は、島根県の【八岐大蛇・祭】(スサノオ尊のオロチ退治神楽)の伝統劇を鑑賞後、物部氏族の【秘儀・鎮魂祭】に特別参加させて頂いた、其の翌日の帰り道で立ち寄った処の、【最多・銅鐸発見】現場の遺跡画像です。然るに、此処、謎とされている加茂岩倉遺跡】島根県雲南市加茂町岩倉)出土の銅鐸(39口の銅鐸)が意味する処は、此れも、『秀真伝』文書の或箇所の記述部分を物語るもので在る。

…因みに、【恵那神社】に言う処の、其の、【ヱナ】とは、【天照大神】の【ヱナ】(
褜・胞衣)の事で在ります。此の事に付いては、『日本書紀』には、全く、記載されていません。然し、『秀真伝』文書には、確と、記載されています。因みに、『秀真伝』に因ると…「ヨシナアガタノヌシキタリアマテルカミノタメシアリヱナコフトキニミコトノリハニシナヌシノヱナカタケ・(中・略す)・ソノヲニオサメマモルヘシ」(ヱナの守りに関する文書等と記載されています。

…然るに、此の一文を以て、且つ、其の内容の如く、つまり、『日本書紀』編纂、
以前、既に存在していたとされる『秀真伝』文書に書かれているが如く、【天照大神・生誕伝承】を追随し、此処に、【恵那神社】(由緒書・在り)が建立されたので在りました。 従って、古代から【恵那神社】が存在する事こそ、『秀真伝』文書が、『日本書紀』編纂以前、既に、存在していたと言う事を証明していたので在りました。


…尚、現在も謎とされている、「最多銅鐸発見現場が意味する事は、『秀真伝』文書に記載されている「或出来事」を、証明する現場でも在ります。従って、此の、遺跡の存在も…「『秀真伝』文書の存在」…を、証明する遺跡で在る事、然りで在る。

…以前、「アメーバブログ」に、【恵那神社】、及び、【大御食神社】に行った事を文書にして投稿し、後、誤字等の修正を兼ね、更に、加筆した時、規定文字数をオーバー(4000文字)した為、保存が出来なくなった。それで、仕方なく、其の文書をコピ-し、又、別会社のブログに転写した記事が、次のURL  http://linkis.com/jugem.jp/hoFkO クリック・若しくはドラッグして検索)…『【恵那神社】&【大御食神社】への旅』アメーバブログからの転写記事です。

…以下【追記】(今日・平成27年・2015/03/28・土曜)…
…『現存・日本書記』(偽書)の、【第9代・開化天皇】条の内容は、其の前の【第8代・孝元天皇】とは内容的には切れている事が解ります。此れは何を意味するのかと言えば、我が、極東の島国からは遥か西方に位置する、【Jerusalem】(イェルサレム)神殿が、陥落した事を知った事に因り、其れに対応した文書が完成した事を物語ってる。従って、【第10代・崇神天皇】の条の、「大直禰子命(オオ・タタ・ネ・コ・ミコト)を探し出せ」と言う話に繋がるので在り、【第12代・景行天皇】条のに起因する、【大御食神社】の話へと繋がって行くので在りました。尚、
加茂岩倉遺跡】(最多銅鐸発見現場の歴史を物語るのが、【第10代・崇神天皇】条の、「ヤクモタツ、イヅモタケルガ、ハケルタチ、ツヅラサワマキ、サミナシアハレ」(八雲立つ、出雲梟帥が、佩ける太刀、黒葛多巻き、さ身無し、あはれ)の歌で在ります。然して、此の歌(定型詩和歌)が、其の、最多銅鐸遺棄に関する謎解きので在り、【第10代・崇神天皇】期の時代とは、銅鐸文化の終焉期の時代で在る。と、言う事で在ります。

…【神武天皇即位・1年目】に対し、現在は、暫定的「前・660年」等と成すが、此の、
絡繰り数値の謎解きのも、【秘儀数値・660】と定義し、考察すれば、其の謎解きも可能と成るので在ります。

…《ヨハネ黙示録【666】は悪魔の数値》…として『新約聖書』に記述されています。では、「何故、悪魔の数値」なのかと言いますと。此れらの数値は、現在に言う【カバラ・秘儀数値】の範疇に取り込まれているからで在る。然して、【660】(6少ない数値)とは、
逆に言えば、Y H V H 】(God、及び、【Messiah】(メシア
に関連する数値で在りました。尚、【】は、最初の【完全数】 で在り、重要な数値とされています。此の双方の数値が合体すれば悪魔の数値として【ヨハネ・黙示録】に取り込まれているのは、何故なのかで在る。

…つまり、
Y H V H 】(Godは、「善と悪の双方の顔を合わせ持っている」ので在る。因みに、【ヨブ記】(『旧約聖書』)を読めば、其の一端が垣間見えます。然るに、【元始・ヤマト(日本)国】の創建史として纏めようと考えれば、其の【日之本】思想の根元を知る必要が在ります。尚、其の【ヒノモト】の語元とは、即ち、ヒトの語元と同じく、「紀元前後頃」に於いて、【カバラ】的【秘儀数値】が用いられ、且つ、【元始・ヤマト国】の統一言語(文字言葉)と成す意を以て、造語された言語で在りました。然るに、我が国の初代国王と成す【神武天皇・即位1年目】を設定するに当っては、国土の統一では在るが、其れは、単に、武力で制圧するのでは無く、ヒノモト思想理念の浸透に至って、始めて、【成就】finish)と言えるので在って、其の暁を以て、良し、と成したので在った。

…以下【追記】(3月29日・日曜)。…此処に言う
成就】finish)とは…《Jerusalemイェルサレム昇天サコクシロ》…の宣言(ミコトノリ)で在る。 

…然るに、此の【
サコクシロ】宣言に対し、此れを、文書化する必要に於いて創作された文書が、【秘儀数値】を用いて成る歴年数値の枠内に収められた処の『秀真伝』文書で在りました。

…尚、『現存・日本書記』を以て説明すれば、つまり、「神話に始まる神武天皇即位1年目~景行天皇期迄(12代)」を例として説明するとすれば、先ず、『秀真伝』文書内容が、時を経て、如何に、現在に言う、
『現存・日本書記』(偽書)の内容に換えられるに至ったのかと言う事に在ります。然るに…『日本神話』の内容は、原典書的、『秀真伝』文書に記述された内容が、其の後年に至り編輯(欽明期)される時、『秀真伝』文書(景行天皇・56年)の内容の、或部分等が、ズタズタに刪定(削除)され、又、漢字に書き換えられた内容に換えらたので在りました。そして、尚、此の文書は、其の後、更に、編纂された後、奏上(逸書日本紀・A,D720)されるも、直ぐ、其の翌年(養老5年A,D721)の【日本紀・講例】以降(以後)が開催され、最も重要な内容の部分が、更に刪定(削除)されるにいたったので在った。従って、元来、「伝えられねば成らなかった肝心成る【ヒノモト思想】が伝わりにくく成っていた」ので在りました。

…然るに、第一回目(養老5年A,D721)とされる【日本紀・講例】以降、先史の成り立ちが解りにくくなっていた文書の写本( 逸書・日本紀)を以て成る【日本紀・講例】の回数を重ねる中に於いて、且つ、何時しか長い年月を経て、現在に至ったので在りました。因みに、『現存・日本書記』とは、戦後(大東亜戦争後)、【国史大系書】として編輯された処の『現存・日本書記』で在ります。 

 

此の続きは、規定文字4000字を越えるので、ページを換えて、投稿する事と致します。…宜しく。