日本語に言う…「歴史を知る」…の意は…「明日の道を見出す」…意で在る | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

   …《那珂通世【讖緯説】の嘘》…

…『現存・日本書紀』(偽書)に記載された【皇暦・エト(兄弟)紀年方式】は、「中国の【日・干支】方式」では無い。つまり、我が国の歴年(皇暦)を書き表す【年・干支】は、『秀眞伝…ホツマツタヱ』文書の「天鈴暦・ヱト年(60年循環方式)」表記を、単に、漢字の【日・干支】文字を紀年方式に置き替えただけで在る。従って、『現存・日本書紀』(偽書)の「神武天皇~景行天皇迄」の、其の、「日・月の数値」や「紀年的数値」は、完全に、『秀眞伝…ホツマツタヱ』文書を書き写した内用で在る。そもそも、古代中国の干支は、「十進方式・日干支」で在る。然し、我が【元始・ヤマト国】(倭国)の…【天鈴(アスズ)暦】は、「六進・十二進法式」で在り、其の方式、乃ち、「六進方式」&「六十進方式」は、紀元前に於ける「メソポタミア文明」、「エジプト文明」等に於ける高度な天体観測が行われた結果、発見された方式で在った。然るに、古代中国の歴史書(前・後漢書)には、【年・干支方式】は存在しない。

…尚、高句麗の公開土王碑(414年・甲寅年九月廿九日乙酉に建てた石碑)に刻まれた【年・干支】は、其の当時の【倭(日本)暦】が用いた紀年方式(天鈴暦)を、単に、【日・干支】の漢字を当て嵌めたので在って、換言すれば、「倭国の紀年方式をまねたもので在る」と言う事に成る。然るに、「百済の武寧王陵・誌石」に刻まれた「癸卯(523年・死)…乙巳(525年・埋葬)」等の【年・干支】の用い方は、当時の、【倭(日本)暦・方式】(皇歴・通年的紀年方式→辛酉年を国家元年として設定された)を、朝鮮半島の主要国等(任那・百済・高句麗)は、【和暦・紀年方式】に言う【年・干支方式】を取り込み、「対・倭人向け」的に於いて、此の【年・干支】方式を、多々、用いていた可能性が考えられる。…尚、其の、古代朝鮮半島に於ける【年・干支】に関し、「和暦・ヱト(干支年と同等の意)】との間には「1年の誤差」(半島暦年は1年少ない単位)を有しているとされるが、其れは、倭国と、当時の朝鮮半島の諸国との「正月・設定方式」が、少し違っていたからではないかと考えられる。然るに、【中国・三国志時代】(魏・蜀・呉)の、【魏…景初暦】に、其の傾向が伺える。

…《【元始・倭国】の建国起元暦》…は、「神武天皇・即位元年」を起点と成すが、其の「元年設定・起点」は、現在の世界暦(西暦)に当て嵌めれば、乃ち…《【神武天皇・即位元年(辛酉)】は「西暦1年に当る」》…。然るに、【神武天皇・即位元年(辛酉)】以前、つまり、東征期間(7年間)を含む以前に於ける我が国の歴年に対し、其の時代を言い表すとすれば、其れは…《『日本神話』時代」》…と、【人の時代】との接点期間的な用語を新たに授ける必要が在る。而して、其の『日本神話』時代の暦に言う【年・干支】の、其の最初の【辛酉・年】が、何故【西暦1年】(日本国家元年)に当るのかと言えば、つまり、『現存・日本書紀』(偽書)とは、【逸書・日本紀(ニホンギ)】の在る箇所等が刪定(削除)された文書で在ると言う事を、先ず、認識する必要が在る。尚、【逸書・日本紀】の原典的文書が『秀眞伝…ホツマツタヱ』文書と言う事でも成る。従って、【年・干支】的語意は、『秀眞伝…ホツマツタヱ』文書に用いられている暦の紀年方式で在ると言う意に起因し、【年・干支】の最初の【58年目】(辛酉・年)が、西暦年に当て嵌めれば【西暦・1年】に当ると言う意味で在ります。然るに…《「那珂通世の【讖緯説】に言う【紀元前660年】を神武天皇即位元年と言うのは空論で在る」》…。従って、「古代・中国暦」に言う『前・後漢書』の歴年に、其の【年・干支】を付す方式は、完全に後付で在ると言う事に成る。

…【那珂通世説→空論的讖緯説】に関しては、別ブログ記事を次に貼り付ける事と致します…
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讖緯説(辛酉革命説)の那珂通世は、紀元前に於ける、「秦(秦始皇帝)の二十六年(前221・庚辰年)にして、我が起元四百四十年なり」(221+440 = 661)と記述し、又…「哀帝元年(紀元前6…乙卯年)在位六年(紀元前1年…庚申) にして崩ず」…等と在る。乃ち、那珂通世の『支那通史』(全三冊・和田清…訳者)の文面に於ける其の部分の続きには…「太皇太后使を遣して馳せて莽を召す。 薫賢自殺す。莽を以て大司馬と爲し、尚書の事を領せしむ。(中略す)」…等と記しています。そして、其の後の記事の内容を要約すれば、「此の年は平帝の元始元 年(庚申)・我が紀元六百六十一年西洋紀元元年なり」と記されていますが、干支年は記載していません。然るに、此の『支那通史』の紀元前期、及び、後期の節目年に於ける紀元前後の歴年的年数に対し、[兄弟・干支]が、何故か、記載されていないので在る。なのに、どうして「讖緯説辛酉革命)が唱えられるのか?」。ハッキリ言えば、此の[平帝・元始元年]を[辛酉年]と設定しての讖緯説で有って、実際的な此の年は、[庚申]の年に当たっている。従って、我が国に於ける讖緯説、乃ち、「辛酉革命説」は、「デツチアゲ説」で有ったと言う事に成ります。(他の処の自説ブログ記事を此処に貼り付けました)。

…「此処のブログ記事に戻ります」…  ↓  ↓  ↓

…「上記の貼り付け文書に対する説明」…は、此処では省きますが、若し、其の【後付・讖緯説】を用いて、後年に編纂し直された中国の「歴年通歴・紀元前年史」に対し、【年・干支】を付すとすれば、【神武天皇・起元1年…辛酉】に合致させる必要は全く無い。若し、我が国の『秀眞伝』 文書の【和暦】(秀眞・天鈴暦)に添わせようとすれば、【紀元前660年目を日本国家・元年】(数え年)として計算す必要が在る。然して、那珂通世は「始皇帝の統一国家元年(前221年)」の年を例として【前・661年】と設定し「数え歳的な計算」をしている。従って、其の【前・661年(辛酉)】からの「数え年的な計算方式」を用いれば、其の計算に因る元年は、【辛酉】に当るが、其の意味は「紀元前・1年」(- 辛酉・年)の意味と言う訳で在る。従って、在りもしない説を設定し、【年・干支】を中国の紀元前的な歴年史に当て嵌めようとすれば、必ず、「1年~2年程の年代的ズレ」が生じるので在る。いずれにしても、【讖緯説】は空論で在って、現実的には存在しないので在る。

…新羅(現在の南朝鮮)の正史とする『三国史記』(三国志では無い)は、「1145年に高麗で完成」。更に、其の後、一世紀程の経過を以て、高句麗で作られたのが『三国遺事』(1280年・成立)で在る。つまり、朝鮮史とする、其の『三国史記』とは、古代中国の歴史書の中の、其の朝鮮に関する文書を編輯した文献で在って…「正当な朝鮮国の歴史書では無い」…。而して、其の後年に作られたとする『三国遺事』(作者・高僧イリョン…学者では無い)の時代頃迄の朝鮮には、「文書を書く【紙】は、一切、存在しなかった」と、されている。然るに…「高句麗に支配されていた朝鮮は、自国の文字も持っていなかった」ので在る。従って、「朝鮮の自国の歴史書は存在しない。因みに、現在の韓国(南朝鮮)は、「古代・新羅」に当る。

…【追記】(平成26年・2014/1/27/月曜)…【歳陰紀年法】 ↓  ↓  ↓ …

我が国の古代史を古代中国の歴年と合致させようとすれば、古代中国の「紀元前的歴史文献」つまり『前漢書』及び『史記(前漢・武帝時代の司馬遷が編輯)』等の文献は、全く必要と致しません。つまり、有史的古代中国の文献資料として必要な文献と致しましては【卑弥呼】時代の事を記載している『後漢書』及び『三国志』が「第一的文献資料」と成ります。而して、其の時代の暦としては、【魏…景初暦】で在る。尚、後年、及び、近年に至り、西暦年(西暦年的暦の設定は6世紀で在る)が世界暦(共通暦)として用いられる事と成った現在の中国、乃ち、「中華人民共和国・1949…昭和24年建国」(略称→中国)の歴史と、「古代・中国史」とは、一線を画す必要が在ります。

…現在の中国は、今年(平成26年)の正月(西暦2014/1/1/水曜・新月に当る)を以て「中国・建国66年目」に当る。尚、此の西暦年との対応は、現在の暦の年を以て起点と成し、過去に遡る計算に於いては【数え年・計算方式】を以て計算されます。つまり…《今年…平成26年→「2014年-数値2013(過去へ遡る為の数え年式計算法)」=西暦1年と成る(歴史年にゼロ年は存在しない》…と言う訳で在る。然るに、古代中国の歴代史は、北方の「モンゴル(元)国の侵略を以て終わった」ので在る。其の後、「明の時代」、及び、「清の時代」等を経て成る中国大陸の歴年史に対し、通年的歴年史として繋ぐ作業を成したのは、我が国の、「那珂通世(ナカミチヨ)」で在った。

…先ず、其れは、古代中国の歴年史と我が日本の歴年史とを合致させる事に在る。然る後、更に、世界暦(西暦年)にも合致させる取り組みを果たした那珂通世(『支那通史』)は、【神武天皇・即位元年】を「起元前660年」と定義したので在るが、其の「紀元前660年・起点」を以て、「神武天皇・元年」に始まる歴年(在位年・空位年を加算する)を計算すれば、其の計算方式には「1年から2年の」の誤差が生じる事と成るので在る。而して、「中国に於ける紀元前的な歴年史に対し
「我が日本(元始・ヤマト国)の暦を起点と成す【年・干支】を付す作業」に至っては、「太初元年(前104年)の干支設定」に対し、【丙子】に当てたり、【丁丑】に替えたりと言う記事が書かれたりして、混乱が生じているので在る。然るに、古代中国では、「太初元年(104年)」に対し、日本の【年・干支】を設定するに当たっては、『爾雅(ジガ)釈天』(中国最古の類語・語釈辞典…前2世紀ころ成立か?)を持ち出して、つまり、【歳陰紀年法】に於ける計算を以て成す「歳星の戌(壬戌)」を起点とした方式が、さも、太古の昔から使用していたふりをして、「紀元前365年(丙辰数値53)へと遡り、其の年の歳星として…【寅年(甲寅・数値51)】…と設定し、在りもしない説を作り上げた。然る後、其処から「126年」戻った「秦の八年(前239年・現行暦・壬戌に当る)」の年に対し、【歳陰紀年方】と成す方式を以て【申(庚申)】と設定した為、現行暦との間に「2年程の誤差」が生じる結果と成ったので在る。又、其の「秦の八年(前239年)」から戻る事135年の「太初元年(104年)」(此の年に太初暦が作られたとされている)の年に対しては、本来【乙亥】でなければ成らないはずが【- 丙子】が当てられた。然し、尚、其の後に於いて【- 丁丑】(現行暦との間に「2年の誤差」が生じている)に替えられている。此れらの混乱を鑑みれば、古代中国に於いて、日本の【年・干支】を取り込み、中国の暦に取り込もうとした経緯が伺えるので在る。

…【追記】(2014/1/28/火曜)…【中国・パクリ文化』は今に始まったのでは無く古代期に遡る… 
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…中国【絵文字→漢字】、及び、中国【銅・文化】の発祥地は「殷(商)」(前1600~前1020年頃)とされているが、其の文化のルーツは【Sumer(シュメル)】(メソポタミア文化)で在る。従って、其の【殷(商)】(次ぎの【周】は神話を持っていない)の地域から発見(甲骨文の発掘者は其の発掘場所を秘密にした)はされた【絵文字】(既に記号化されている)、及び、其の絵文字に因る【十干・十二支】(日暦)は、「メソポタミア文明」の【銅の技術】や【絵文字】をルーツとしているので在る。尚、「現在的・漢字構造」の起元は…《後漢時代・「漢字の反切(ハンセツ)」の発明》…に在るが、其れも、基本的には、「メソポタミア文明」の【絵文字】をルーツと成す【絵→記号化文字】が基本で在る。

…以上、上記(先述)の事を以て要約すれば、「古代中国に於ける【銅】文化(殷国)」は勿論の事、「漢字」に先立つ【絵文字】、及び、【十干・十二支(動物では無い)】」等の「甲骨文字文化」は、乃ち…《「古代・中国成立以前」(前221年・始皇帝に始まる)。其の【銅文化】に始まる【絵文字】、及び、【十干・十二支】(日暦)等の「文字文化」の起元は、「古代・中国発祥では無い」》…と言う事で在る。つまり、【甲骨文字】(1899・明治33年に王懿栄氏が「龍骨文」を発見する) が発見される迄の以前は…《「周(反乱軍族)は二代(①周の文王・②武王発…文王の子)に鑑みて郁育乎(イクイクコ)として文なるかな。吾は周(に従わん…『論語(孔子…弟子?)』》…つまり、【甲骨文】が発見(明治33・1899年)される迄の、其れ以前にあっては、其の…《「【殷(商)】時代以前史・思想等」を中国(1949年…昭和24年に建国した)は否定していた》…ので在る。



…而して、「武帝時代(前漢・前179年元年)」と成す【太初暦(注①・三統暦…八十一分法)】(前104年)の作成は、其れ以前、乃ち、「武帝の元朔3(前126年)の年として、西域(大月氏国…ギリシア文明を有す国)へ使いに出た人が13年後の此の年に帰国した」事を以て、当時の「西域・暦」の暦作成的構造(理屈)を入手する機会を得ていたので在る。尚、『後漢書』の中に於いて、「太初暦」に関連して記載された内容には…「暦に関する日数的な理屈」が記されるも…「其の、【太初暦】の原理的理屈に行き着く迄の研究的な過程等の記事」は、全く、記載が無い。つまり…【太初暦】に関する説明は記すが、其の暦の原理的結果だけが忽然と表われた恰好(パクリ)」…で在る。

【注】…①「【三統暦】は235太陰月を19年(19年太陰法を【章】と言う)と成す。1ヶ月を29日81分43と成す分母の81を以て【81分法】と言う。月の大、小、閏月は1539年で循環(【一統】)し、更なる【三統】は、日の干支も循環す。以て【三統暦】と言う」。
  

…【追記】(平成26年・2014/1/30/木曜)…《倭語【カミ】の語元と漢字【紙…シ】との違い》…に付いて
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…英語圏の言語「ペーパー」に対し、日本語に言う【カミ】(漢字の【紙】の意では無い)に当て嵌められているが、而して、漢字【紙…シ】の文字を、我が国の言語(元始・ヤマト言葉)【カミ】に対し、漢字【紙…シ】と当字している処に間違いが生じている。つまり、「ペーパー」とは「Papyrus→パピルス」が基本的語源で在る。従って「植物繊維(現在は木・パプが原料)が原料としての語元を有すので在る。然るに、中国に言う【紙…シ】とは、「糸・偏」を用いている処に問題が在ると言う事で在る。然るに、「漢字【紙…シ】の漢字の成り立ちに言う偏は【木・偏】では無く【糸・偏】で在って、「植物繊維」の意では無い」と言う事で在る。

…中国の【紙…シ】の製法を発明したのは蔡倫(105年)とされているが、其の時の品物は「植物繊維・布」では無く、絹や他の糸屑等(糸)を集め、更に、接着剤的材料を混ぜて作られた「二次加工・製品」で在った。従って、【糸・偏】の【紙…シ】の漢字と成っているので在り、現在的、英語圏言語に言う「ペーパー」(パピルス・葦が語元)、及び、倭語(母国語)に言う【カミ】(1文字1音言語)の原料を植物繊維に求めた品物(和紙)とは、一線を画す必要が在ります。

…蔡倫の【紙…シ】の製法(105年)以前、つまり、其の年代より更に「284年をも過去に遡る事」、其れは、「前漢(前2世紀)の文帝(在位・前179~前157年)」、及び、「景帝(在位・前156~前141年)」の漢墓から、【麻紙】(「木偏・文字)に関連する「植物繊維」を原料と成す遺物が、近年に於いて発掘されていて、其の「遺物…麻紙」が、現在に於いては最古の【紙】で在ると解釈されている。然るに、西域に発生した文明の波は、民間的な人達等の移動に於いて、緩やかではあるが、中国の国内にもたらされていたので在る。然るに、「麻布・作成技術」に付いては、
『聖書』(出エジプト記)、乃ち…「出エジプト28・39…亜麻布で市松模様の長服を作り。(以下略す)」…等と記述されているが如く、太古の昔に於ける西域では、既に、其の「布・作成技術」は完成していたので在る。従って、我が国の国家の起元(Qumranからの移動)に在っては、既に、「服・生地」に用いる【布】を以て文字を記していたので在り、従って、文書の単位的呼称に於いては【アヤ…綾」と呼んでいたので在る。而して、倭語に言う【カミ】(紙の意では無い)とは、現在に言う「和紙」に当るが、其の用途としては、【カミ(上の意・AL)】に関連する品物を等を包む為に開発(『秀眞伝』に記載在り)された技術で在った。

【追記】(平成26年・西暦2014/1/31/金曜・旧暦正月元旦新月に当る
…表題『歴史を知る』の意は…「明日の道を見出す」…意で在る…
    ↓   ↓   ↓ ← (追記)
先の表題…「【皇暦・兄弟(干支)紀年方式】は日本(元始・ヤマト国)が起元で在る」…と成す表題は…《「日本語に言う…「歴史を知る」…の意は…「明日の道を見出す」…意で在る》…と言う表題に書き替えました。

…《「日本人の【Identity(アイデンティティー)】を知る」》…と言う意味は…《「日本人のpolicy(ポリシー・方向性)」を知る》…と言う事で在る。其の…《日本人的「policy・方向性」とは、つまり、我が国の建国以来から称された国称、乃ち…《【ヒノモト(日本)】の語意》…に帰依しますが、而して…《【ヒノモト(日之本)】とは何ぞや?》…と言えば、乃ち…《【元初的国称・ヤマト】の語意》…に行き着きます。尚、「【ヤマト】の語元」が知りたいと思えば、『秀眞伝…ホツマツタヱ』文書を読む事が最大の近道で在ります。尚、『秀眞伝…ホツマツタヱ』文書に付いては、私の、此のブログ、つまり…《『秀真(ホツマ)太郎のブログ』(ameba blog)・「テーマ・小島史学」》…と表題するブログの中で解説致しております事、宜しく御願い致します。尚、此の『秀眞伝』文書に対し、其の従来的な解釈方式に於いて、つまり、『秀眞伝…ホツマツタヱ』文書に対し…「ヲシテ」(『秀眞伝』)と称し、其の文書の起元に対し「縄文時代の文書で在る」…等と言う「空想的・節」…が罷り通っていますが、此処(Ameba Blog)に記す『秀眞伝』文書の、其の「文書解読・方式」と致しましては、…《「一切の空想的解釈を廃し、考古学的資料
クムラン遺跡の検証」》…を以て、解説を行っております事、宜しく御願い致します。


尚、此の【Ameba Blog(アメーバ ブログ)】は、「文字数(4000文字以内)」に制限が在りますので、此処で終わらせて頂きます。是れ以後のブロク゜記事は、改めて、別フログとして書いていく所存で在ります事、宜しく…