【ホツマ文字の起元】(起源の意ではありません)に付いて… | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!



…[ホツマツタヱ]…の「ホツマ」と言う言語に対し、漢字で[秀眞]と書き表されているのは何故なのか?…。然るに、現在、[ホツマツタヱ]文書に関する本が、公な場所(書店)を通じて多くの人達が読めるように成っているのは、昔、其の文書の1部分を街(東京)の古書店で発見(昭和41年)して、更に、其の文献の源を探し求めた後に、自費出版、乃ち、『復刻版・ホツマツタヘ(ヱ)』の本を世に出された、[松本義之助氏]の功績が大で有ります。其れ以前、平田篤胤(江戸後期の国学者)が収集した各種の神代文字の中に、其の秀眞文字(幾何学的形状文字)を以て、其の本の表題的語句、つまり、[ホツマツタヱ]と記され、又、其の文字を以て「五十音図」的に文字を配置した表の形でも、其の文字が発見されておりました。然し、文書の体裁を成した文献の発見には至っていませんでした。然し、現在、其の文字で記された[ミカサフミ三笠文]文章(全64章と序章で構成されてる)の中の数章が、京都の「龍谷大学図書館所蔵」として保存されています。 

…然るに、何故、古代に於ける「ヤマト国」の歴史書的文章の表題が、[ホツマツタヱ]でなければならなかったのか?…。其れは…『現存・日本書紀』の神武天皇31年条に…記述されている事がヒントに成ると私は思いますので下記に記します…。

…「(前文略す)…卅有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登掖上嗛間丘、而廻望國状曰、(ケン…優美の意)哉乎國之獲挨。雖(スイ)内木綿之眞迮(サク)國、猶如蜻蛉臀呫爲。由是始有秋津洲之號也。昔伊弉諾尊目此國曰、日本浦安國、細戈千足國、磯輪上秀真國。(此云袍圖莽句爾)、復大巳貴大神目此曰、玉牆(垣)内國。及至饒速日命乗天磐船而翔行太虚也睨是郷而降此、故因目此、曰虚空見日本國挨…(後文略す)」(国史大系『日本書紀』より抜粋)。…。

…と、記されている中の、「磯輪上秀真國」(袍圖莽句爾ホツマクニ)と言う一文に起因し、後年、北畠親房は其の著書『神皇正統記』の中に於いて、其の「秀眞国」(良く整った国の意)の名称を取りあげております。つまり、それらの史実が物語る事は…「磐余彦(後の神武天皇)即位・以前」…に於ける、我が国の名称に対しては、「ホツマ」と言う造語(用語)が用いられていたと言う事が考えられます。

…「第二次世界大戦」…其の終戦(1945年8月)後に再発見(昭和41年)された[ホツマツタヱ]文章と、其の文字に対し、其の文章の発見者で有る松本義之助氏に始まる研究グループの人達は、「縄文時代・文字」として位置付されておられるようですが、私は、其の[ホツマツタヱ]の、其の文字、乃ち、「オシテヲシテ/於志弖)」(ホツマ文字の意)に対し、「オシテ&縄文時代に作成された文字」等とする説に対し、私は全く否定致します。而して、[オシテ(ホツマ17-36…タのオシテ・ミヒカリまるの・うちにヰル)]の作者に対し、縄文時代文化の人達で有る」と言う説に対しては否定致しますが、[オシテ]文書に因る思想に基づいての創建、乃ち、[ホツマ・国]を創建する時に当たり、此の島の先住者で有り、縄文の文化を引き継いできたとされる土着の人達との協力(強調)的作用が有った等とする説に対しては賛同出来ます。然るに、平田篤胤が収集した各種の神代文字と、篤胤が唯一、其の神代文字の存在を認めた「阿比留文字」(楷書・草書体文字)とは別個に、[オシテ(秀眞)文字]だけが、「縄文時代の文字で有る」とする説は成り立ちません。 つまり、神代文字(秀眞文字も含まれる)、其の後年に言う[ジンダイ神代)文字]と呼ばれる文字の起元に関して言えば、「縄文時代説」、「西暦の紀元前後頃説」(筆者説)、又は、「江戸時代頃説」等は、さておき、其のどれもが同じ時代(先代サキツヨ)頃に用いられていた我が国独自の文字(特定的・氏族固有文字)と考えるのが妥当ではないかと私は思います。

3年後)…下記に【追記】(2016=平成28年12月11日/日曜)…【カミナフミ】(神名文

…【秀真文字】(ホツマモジ)に対し、『秀真伝』文書に於いては【①…オシテ】と【②…ヲシテ】の表記(二通り)が多々用いられ
ていますが、実質的には…【カミナ】『秀真伝』33章)…即ち、【上(秀/ホツ)名】(カミナ)と言うのが正式名称でした。因みに其の表記文面の一部を下記(Google因り検索す)に記す事と致します。

…「うえしたかえす、オシテ、つちとはは()のり」(秀真17章)。…「いにしかみ、つくりさつくる、とほこあり、はととのふる、オシテなり」(秀真伝17章)。
…「すえたみ(末民)とても、うえのとみ(上の臣)、かならすヲシテ、たまふなる、みうたなりけり」(秀真伝17章)。 

…つまり、此の【カミ・ナ】(名≒字)文字文書(7家が所有していた文書)が漢字に書き換えられた頃(欽明天皇期)に於いては未だ【カミナ】(上名/名≒字の意)と言う名称が存在していたからこそ、更なる其の後年に至っても【神代文字】(カミヨモジ/ジンダイモジ)と言う言う表記方式が用いられ、現在迄にも至っているので在ります。

…然して、【ホツマツタヱ】(秀真伝)&【ミカサフミ】(三笠文)文書を構成する文字、即ち、【秀真文字】(ホツマ文字)の起元(起元(起源の意ではありません)は…「A,D,31年以降~A,D,239年間」(卑弥呼の鏡年号の年)を経た時代(A,D,2世紀中頃)に至り、尚、其の後の「A,D,340年」頃(3世紀中頃~4世紀中頃)に創製されたと想定する事が出来ます。此の事に付いては…《【ホツマ数値文字のRoots】(イオニア式)》…に付いて書いている【広(廣)開土王碑】の文面が参考に成ります。
… 
【ホツマ数値文字のRoots/ルーツ】は【イオニア式】で在る
…此のブログURL… http://linkis.com/ameblo.jp/erusaremu4/36nyT ドラッグ&クリックして検索)…


…此のURLブログ文面の、其の何処が参考になるのかと言いますと、【好太王碑】に記されている【倭国・通歴年設定方式】日本創建史物語に起元する)に在ります。つまり、其の碑文の【干支年】数値は、【倭暦】(Japan Calendar=アスズコヨミ/天鈴暦)設定方式の数値年を取り込んでいるからです。然るに、【ホツマツタヱ】(秀真伝)&【ミカサフミ】(三笠文)文書に言う…「天の巻」(ホツマ伝・1章~16章)。そして「地の巻」(ホツマ伝・17章~28章)迄の文章を終え、其の次ぎの文書、つまり【長髄彦・討伐物語】(人の巻…初章/29章)の開始年は…「ミマキイリヒコ(崇神天皇)12年条」(肇国知らすミマキの代)…の数値年に合わせて設定されている。換言すれば、正式的な【倭国・創建年】は、【ヤオのアラヒト・ミコトノリ】肇国知らす詔)の宣言を以て文書化された数値年に溯り、此の文書物語(タケヒト=後に言う神武天皇即位1年目/A,D,1年目に当る)の数値年として施行されたからで在ります。然るに実質的、現在に言う【皇歴年】数値が表面化するのは「4世紀中頃」以降の事。

…以上…此の上記文、即ち、【ヤオのアラヒト・ミコトノリ】の年(崇神天皇・12年条)から約50年を経て設置された【広()開土王碑】の中の【干支年/刻字】(倭暦/天鈴暦に基付く皇歴通年表記方式)が…《【倭暦・設定方式】の世界史レビュ-》…と言う事に成ります。

下記に【追記】(2016年=平成28年12月13日/火曜)…【身丈柱=心御柱】数値の「始点から到達点」
…【身丈柱=心御柱】(ミタケバシラ&シンノミハシラ)の元義は【書かれざるカバラ】に在りました。其の口伝が始めて文書化されたのが【Zohar/ゾハール】…「アラム語のジハラ・輝きの意」(ラビのレオン著/A,D,13世紀のスペインにて)です。然るに其の【書かれざるカバラ】(口伝)に言う【身丈柱】の語意を用いて伊勢神宮に設置(垂仁天皇26年)されました。それが現在に言う【心御柱/シンノミハシラ】の事で在ります。其の…《【身丈柱=心御柱】数値到達点》…を、今日(2016/12/13/火曜)の今朝、突然的に特定するに至りました。

…然るに3年前(2013/01/07)の此のブログ。其れから約10ヶ月後(10/01/金曜)に於いての【ヒエラルキ-構図】A,D.2013年…平成25年10月1日・金曜に完成)完成時には【ミタケバシラ/身丈柱】の数値迄は特定するも、其の数値が何を意味するのかと言う事に対しては全く手掛かりさえ掴めていませんでした。然して、其の【ヒエラルキ-構図】(三角図的階層)の完成に因って、其れから今日に至る迄の此の約3年間に在っては【秘儀数値】に関連する語元を多々特定してきました。そして今朝に至っては、【ミタケバシラ/身丈柱】数値の、其の「始点~到達点迄」の数値を特定するに至りました。

…今日に至る此の3年間に在って、尚、【ヒエラルキ-構図】(三角図的階層に対する考察に在っては、【ホツマツタヱ】(秀真伝)&【ミカサフミ】(三笠文)文書の年代特定の研究に邁進する処と成る。其の結果、今年(平成28年)の10月16日(日曜)に於いて、在る大学の学生、つまり、歴史学に詳しい人達4人(来春卒業&大学院生)に、私の研究内容を伝える事が出来ました。そして、今月(12月23日/天皇誕生日)に在っては、其の大学の学生(4人の中の1人)から電話(或日の事)が来て、其の電話に因ると「其の大学の或先生を紹介する」との事でした。此の事がプレッシャ-に成っていて、つまり、【日本建国創建史・設定数値】復元図・完成/2016/10/06/木曜)に在っては【千木】(数値・1000迄)の到達点数値は特定済みなれども、其の【ホツマ・秘儀数値】の全体像を、一口で、尚、完結的に言い表す数値言語を見出せていなかった事に気が付いた次第でありました。従って、此の数日間は其の全体像を一纏めに説明する為の【秘儀数値・言語】の特定に対し神経を集中させていました。其の甲斐在ってか、今朝方、目が覚めるなり、突然、其の一纏め的数値が脳裏に浮かび上がり、早速、【汎用 CAD】(製図作成・キャド)を用いて図表の検証をするに至っては、其の全ての秘儀数値を網羅(アダム~ノア大洪水期&死去年~ギリシア語訳洪水年数値迄)する数値で在る事を確認するに至りました。然るに、早急的…《【ホツマ秘儀数値・枠】&【身丈柱・寸法値】全体像》…の数値特定に在っては、其の紹介日(天皇誕生日)迄には特定しておく必要性にかられ、無意識の内に於いても急いでいたのかもと…今、思う次第で在ります。

下記に【追記】(2016年=平成28年12月18日/土曜)…「秀真/在位年設定方式」
…「秀真/在位年設定方式」。つまり、【秀真伝】&【三笠文】文書(日本書紀の神武~景行天皇迄の物語)の歴代在位年は、どのようにして設定されたのかと言えば、先ず、【幻の西暦1年目・起点年】の定義付けに在りました。そして此の定義付けを見える形にする為の物語を創作。其の最初の物語は「善と悪との戦いに勝利する物語」クムラン秘儀宗団・巻物)で在るが、此の元案を参考にして我が国の創建史物語に組み込まれる事と成る。それが【長髄彦・討伐物語】で在る。此の物語の歴年設定に当っては【ヨベル年】(7年週期)を以て組み込む。其の【7年週期】に従って【初代・タケヒト】(神武天皇)の即位年は設定された。つまり【秀真伝】&【三笠文】文書は【正典】(Bible)作成を目的としての文書だから、【秘儀数値】(12代=790年迄)が既に設定(天鈴暦)済みで在り、其の数値年の中に【伊勢神宮建立・設定年】を組み込んでいる。然し、此の【伊勢神宮・設定年方式】はゲマトリ数値ではなく「ノア期・大洪水年数値」(1656年)です。然し、12代(神武~景行)、各々の在位年は【
秀真…ミナカヌシ/紀…天御中主】の語意的ゲマトリア数値を用いて区切っています。つまり、此処に言う【秀真伝・歴代在位年設定方式】とは、【Qumran Sect】(クムラン秘儀宗団)時代(B,C,2始め頃~1世紀終り頃迄)に設定されていた【God(カミ=上)国・創建設計数値】(1萬=Τ/大洪水年等数値/カミ≒上の顕現数値に対し、【B,C,31年・Qumran巨大地震】以後(極東の島へ移動)、極東の此の島に於いて新に造語した倭語に置き換え、尚…【日本国家創建史・設計数値】として編輯されたものでした。従って、其の【12代・在位年設定方式】は、【アメ…ナカヌシ】(天…御中主)の御名に対するゲマトリア数値(数値変換言語)を以て区切って在る。
…上記
【God(カミ=上)国・創建設計数値】…の名残が【漢委奴国王】(金印=A,D,57年/福岡県・博多の志賀島から出土)です。

下記に【追記】(2016/12/18/日曜)…ホツマ文字【ア・ワ】(渦巻き形状)はイオニア起元で在る
…【ホツマ・数値文字】、及び【ホツマ文字=ア・ワ】(渦巻き模様)の字形は【イオニア式・字形】で在る。此の【イオニア式・字形】(数値方式&渦巻模様)と、【Qumran Sect】(クムラン秘儀宗団)との接点は、B,C,2世紀~1世紀中頃に於ける筆記用具(パ-チメント/高級羊皮紙)に在りました。然るに【死海文書】(1947年発見)の巻物は其の【羊皮紙/パーチメント】(アッタロス王朝はアテナ神殿中にベルガモン図書館を造営していた)で在ります。又、思想的な繋がりと致しましては【反・奴隷制度】(太陽の国・思想)で在ります。従って、倭国(秀真思想/ヤマト国)に於ける最高神に対しても【大陽】(天照大神)思想のイメージを用いて設定されました。


…此の続きは後日と致します…


 
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