「神を愛する」という言葉を聞いたとき、皆さんはどのような情景を思い浮かべますか?
静かな教会で祈りを捧げる姿でしょうか。
それとも、敬虔な生活を送る個人の姿でしょうか。
実は、キリスト教における「神への愛」は、個人的な感情に留まるものではありません。
それは極めて社会的なアクションであり、私たちがこの複雑な社会をどう生き、どう愛していくべきかを示す究極の実践マニュアルなのです。
1. 縦の糸と横の糸:二つの愛は切り離せない
キリスト教の教えの根幹には、常に「神」と「隣人」のセットがあります。
聖書にはこのような言葉があります。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟です。第二もこれと同じように重要です。『隣人を自分のように愛しなさい。』」
(マタイによる福音書 22章37-39節)
ここで注目すべきは、イエス・キリストが「第二もこれと同じように重要だ」と述べている点です。
神を愛すること(縦の糸)と、社会・隣人を愛すること(横の糸)は、一枚の布を織りなすように不可分なものです。
神を愛していると言いながら、目の前の社会や人々を軽んじることは、論理的に矛盾していると聖書は説いています。
2. 「社会の最小単位」への眼差し
なぜ神を愛することが社会を愛することに繋がるのでしょうか。
それは、キリスト教が「すべての人間は神の似姿(最高傑作)である」と定義しているからです。
「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」
(マタイによる福音書 25章40節)
この言葉は、現代社会における「社会的弱者」や「見過ごされがちな人々」への向き合い方を教えています。
社会を愛するとは、抽象的な「世界平和」を願うことだけではありません。
目の前の困っている人、孤独を感じている人の中に「神の輝き」を見出し、具体的に手を差し伸べること。
そのアクションこそが、神への愛の証明となるのです。
3. 分断を乗り越えるための「愛のマニュアル」
現代社会は、意見の対立や格差によって深く分断されています。
こうした状況で「社会を愛する」のは容易ではありません。
そこで、キリスト教が提示する「愛の定義」がマニュアルとして機能します。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高ぶりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず……」
(コリントの信徒への手紙一 13章4-5節)
この有名な一節は、単なる道徳論ではありません。
・自分の正義を押し付けない(高ぶらない)
・異なる背景を持つ人を尊重する(礼儀に反しない)
・全体の利益を考える(自分の利益を求めない)
これらはまさに、多様な人々が共生する「健全な社会」を維持するための作法そのものです。
神を愛そうと努めるプロセスで、私たちは自然と、社会を維持するための忍耐と包容力を学んでいくことになります。
〇結論:信仰とは「世界への責任」である
神を愛することは、現実世界から目を背けて天国を夢見ることではありません。
むしろ、神が愛したこの世界を、神に代わって慈しみ、ケアしていくという「社会に対する責任」を引き受けることです。
「神を愛するマニュアル」に従って生きることは、より良い社会を築くプレイヤーになることと同義です。
私たちが今日、隣人に対して向ける小さな親切や、社会の不条理に対するささやかな抵抗。
それこそが、最も美しい「神への愛」の表現なのです。
皆さまの生きづらくない毎日のお手伝いができれば幸いです。