10/4、久しぶりの上野に一水会を見に。ずーと昔主人の転勤で約3年間住んだ名古屋、大きな団地(大幸

団地)に暮らしていた頃の絵画の先生(一水会会員遊馬勇馬先生)の下で、向日葵に特化して描いた日々、懐かしいあの日がよみがえってきました。

久しぶりの、具象の世界に、、、ほっとしました、、、長いお友達のkさん、頑張っていました。

俳句好きの私、正岡子規の世界好きなんです。短歌も、俳句もすっかり変わってしまいましたが、日常をさり気に

表現する、そんな俳句が好き。それにもう一つ母からの手ほどきの短歌もまたなくてはならない世界です。感情移入には持って来い。恋の歌、失恋の、思い出もそっとオブラートに包んでしまえるしね。めちゃカッコイイ教養人の振り、、、ほ、ほ、ほ、、、母が言っていました【ノートと鉛筆】たったそれだけで楽しめる世界だって。

秋の空 子規の声きく ストライク      (晴枝)

ストライク 子規の声する 天たかし

  

正岡子規記念野球場

さて上野公園、都美館に行く途中に【正岡子規記念球場】が。<春風や まりを投げたき 草の原>の句碑が、さりげない句?でも青春の、病気がちだった子規の心の中、、、思いっきり泣けてきました。

子規が上京し、大学予備門で野球を知り果敢に挑み、ポジションはキャッチャー、新聞【日本】に野球のルールなどの解説を執筆していたそうです。子規の幼名、升(のぼる)に因んで【野球=野ぼーる】という雅号を使っていました。キャッチャー(きゃ者) ストライカー(打者)ピッチャー(投げる者)ピッチャー(打者)などと翻訳したのも彼で

した。2002年、文学を通して野球の普及に貢献したことにより、文化人初の野球殿堂入りをしています。

昔に読んだ<坂の上の雲>、日経の朝刊連載の<ミチクサ先生>特に漱石と子規の友情。死の最期をみとる母と妹、泣けた。若くして脊髄カリエスで亡くなった子規(34歳)、鳴いて血を吐くといわれているほととぎすと、喀血する自分を重ね合わせ、子規(ほとぎすの漢字表記)を自分の俳号に。短歌、俳句を文学として位置ずけたのも子規だそうです。

かの有名な【柿食えば 鐘がなるなり 法隆寺】私め、この句ストレートすぎて今一つなんですが。秋本番、上野にお出かけの折には、お勧めです。

 

 

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