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掌を見つめながら
とつおいつしながらも
独り言を語る
何かを積極的に語らない
ひとりひっそりと力を抜いて
自分のための自分に宛てたボッチなブログ

 

父が亡くなってまる三十年、再来年は三十三回忌。

 

”朝顔のぼんぼり”
墓の横両端に立てる明り取り。
お盆の時期、固有に伝わる伝統的な風習。

 

 

 

 

 竹の骨組みにあさがおのデザインが描かれた紙が貼られており、夕暮れ時から夜にかけてろうそくの灯をともす田舎の夏の風物詩。

 

 

 子どものころ、本堂でお賽銭を投げ入れて拝み、振り向きざまに参道の出店で買った花火。
 あの夜、夜空に弾けた眩しい光も、いま思えば一瞬の幻のようだ。
花火の儚さは、そのままぼくのなかに残る記憶の曖昧さに重なる。
時が経つほどに、あのお盆の出店が立ち並ぶ境内の景色も、見上げていた父の背中も、淡くかすんでいく。


 記憶という名の儚い灯火のなかで、父の背中を偲びながら、ぼくは今も本当の自分を探し求めている。


 

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「ぼくが生きてる、ふたつの世界」

 

この映画を否定するわけではない.。

ぼくにはこの「ふたつの世界」という言葉に違和感がある。

 

耳の聞こえない父とは、幼少期も、思春期も、二十代になっても一緒に暮らしていない。父はぼくと弟を捨てていったのだと、ずっと思っていた。

 

ある日、向かいの家の子と喧嘩をして泣かせた。すると彼は家に駆け戻りながら、「お前をオレの父ちゃんに言いつけてやる!」と叫んだ。
そのとき、ぼくのそばには父親がいなかった。
ぼくはずっと、「父のいる世界」を生きていない。

 

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 ぼくの父は母子家庭に育った。母親、つまりぼくの祖母は産婆(助産師)をしていた。日夜を問わずお産の呼び出しがあり、いつ何時も家を空ける多忙な日々だったらしい。

 

 九十八年前、父がまだ三つのころ、みぞれの降る寒い夜、帰らない母親を待ち続けた末に中耳炎を患った。ようやく医者に診せた時には、すでに鼓膜が溶けてなくなっていたという。

 

 その事故による聴覚の喪失が原因で、父の発語は幼児のようになり、言葉はたどたどしい。だが、決して「唖」などではない。

 

 

 ぼくが子どものころ、父は竹細工の職人だった。おもに、蚕や桑の葉をのせる「えびら」や果物籠をこしらえていた。しかし養蚕の衰退とプラスチック製品の普及により、商売は成り立たなくなった。失意のなか「出稼ぎ」と称して家を出た父は、そのまま東京に居ついてしまった。

 

 

 

 

その後東京から戻ってしばらくして、
彼は体調を崩し入院した。

肺気腫だった。


毎晩病院で寝泊まりした。
完全看護ではなかった。

理由は、聴覚障碍者ゆえに医師、看護師等とコミニュケーションが取れないからだ。

 

 病院に付き添って泊まり、朝に自宅へ戻る。今度は弟を病院へ送り、昼も付き添いをする。そして、ぼくは仕事に向かう。夕方、弟を迎えに病院へ行き、連れ帰る。そして夜はまた病院へ。

 その繰り返しが半年続いた。一旦は退院したものの、再度入院し、それから半年後に父は亡くなった。

 

 まだ若かったぼくは、こんな異常な生活を延べ1年も続けた。病室では父のペースメーカーが激しく作動し、そのたびに看護師がバタバタと駆けつけてくる。コンクリートの床の上では、まったく眠れない。

 

 父が亡くなったとき、正直言って「ホッとした」と思ってしまった。罰当たりなことだと自分を責めた。

 

 葬式では喪主を務めたが、挨拶ができなかった。悲しくて声が出なかったのではない。何も準備できていなかっただけだ。喪主でありながら、親方(社長)にあとのことを代わってもらい、そのまま会社へ出勤した。父の死よりも会社を優先してしまった。罰当たりなことをしたと思う。

 

 その後、四十九日を迎えるころにお墓が完成した。実は、墓地は前もって購入してあった。これもまた罰当たりなことだ。お寺さんにお経を読んでもらい、家族三人でお墓開き(開眼供養)を行った。

 

 

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チャイコフスキー「悲愴」
楽器がだんだん減ってきて、一歩一歩沈んでゆく。
どこか奈落の底に案内されているような感じがする。

 

死の闇が迫って意識が消え、一切が無に帰するときの、臨終の感覚だろうか。 いや、こんなに穏やかに死ぬだろうか?
父は「グッ、グッ」といって呼吸が止まった。

 

 子供のころ、家の二階から外を眺めていた。
近所のおばちゃんが、空気をかき分けるようにして川の方へ駆けてゆく。
いや、正しくは、気持ちばかりが先走って足がついていかないような、もどかしい走り方だった。
子供が溺れたのだ。
ぼくの記憶に深く刻まれた『悲愴』とは、あのときの彼女の横顔もそのひとつだ。

チャイコフスキーが描いた音の闇の先にあるのは、ただの虚無ではない。それは、父が必死に命を繋ごうとしたあの喉の震えであり、我が子を救おうと駆けた彼女の狂おしいほどの生そのものだ。ぼくにとっての『悲愴』とは、死の冷たさと、それに抗う生の烈しさが交錯する、この世界の肌触りそのものなのかもしれない。

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 父母は共働きで、ぼくはいつも淋しかったのだと思う。だからこそ、今でも鮮明に思い出す光景がある。父の大きな肩車に乗せられ、母と三人で近くの夜桜を見に行ったことだ。夜の闇に浮かぶ桜と、頭の上から伝わってくる父の体温。それは数少ない、ぼくの心を支える温かな記憶だった。

 

 三歳、四歳、五歳のころのぼくの特等席は、父の自転車の前かごだった。かごに入れられ、父に連れられてあちこちを回った。耳の聞こえない父のために、小さなぼくは一生懸命、周囲の様子を伝える「ナビゲーター」役をしていた。言葉を超えて、二人でひとつの前進をしているような、不思議な一体感があった。

 

 だからだろう。ぼくが大人になり、田舎へ戻って運転免許を取ったとき、今度はぼくが父と母を車に乗せてあちこち連れ回すようになった。あの幼い日、自転車のかごから世界を教えてくれた父への、ぼくなりの恩返しだったのかもしれない。車の助手席で、今度は父が、ぼくのナビゲーターを務めていた。

 

 あんなに近くて、あんなに遠かった、父とぼくの距離。なぜ、ぼくたちの関係はどこか薄く、お互いに踏み込めなかったのか。その理由の断片を、ぼくは父が亡くなった後の遺品整理で見つけることになった。

 

 遺品の中に混ざっていた、古びた一枚の写真。そこに写っていたのは、軍服に身を包んだ若い青年だった。戦死したという、ぼくの祖父。つまり、父の父親だ。

 

ぼくと父は、顎が若干尖っている。けれど、写真の青年はエラが張っていた。父にも、ぼくにも、どこか似ていない。「これが本当に、ぼくの祖父なのだろうか……」そんな小さな疑念が、静かに胸の奥に灯った。

 

 

 父は生前、自分の父親のことを一言も語らなかった。祖父が戦死したため、父もまた「父親」という存在を知らずに育ったのだ。写真の青年が本物の祖父であれ、そうでなかれ、父にとっての「父親」とは、その一枚の写真のように、実体のない、どこか遠く見知らぬ他人のような存在だったのかもしれない。

 

 父親に甘えた記憶も、父親の背中を見て育った経験もない父。だからこそ、父もまた、ぼくとどう向き合えばいいのか分からなかったのではないか。ぼくたちの間に漂っていたあの「薄い関係」は、父が意図したものではなく、祖父の戦死という歴史によってもたらされた、不器用な連鎖だったのだと気づかされる。

 

父は生前、自分の父親のことを一言も語らなかった。ぼくは長い間、それをただの「寡黙」だと思っていた。けれど違ったのだ。父は語らなかったのではない。「語れなかった」のだ。後になって、ぼくは祖母の出身地である隣町の役場へ向かい、祖父と祖母の婚姻関係を調べたことがある。そこに記されていた事実は、「未婚」の二文字だった。父は婚外子としてこの世に生を受けていたのだ。

 

 おそらく祖母からも、父親についての詳細は何も聞かされていなかったのだろう。ぼくは今でも、祖父の苗字こそ調べ知ったものの、その下の名前すら知らない。あの軍服の青年が本当に祖父なのかという違和感。そして、父の徹底した沈黙。そのすべての謎が、役場の冷たい書類の上で繋がった。

 

 父もまた、自分の父親が誰なのか、どんな人間なのかを、実感を伴って知らないまま育ったのだ。父親に甘えた記憶も、父親の背中を見て育った経験もない父。だからこそ、父はぼくが生まれたとき、どうやって「父親」として振る舞えばいいのか、その正解が分からなかったのではないか。

 

 ぼくたちの間に漂っていたあの「薄い関係」は、父の冷淡さゆえではない。祖父の不在という歴史がもたらした、孤独の連鎖だったのだ。父もまた、生涯をかけて「自分のアイデンティティ」を探し、迷い、そして語れぬまま逝ってしまった。その哀しみが、今になってぼくの胸を締めつける。

 

 

 父が亡くなり、四十九日を終えたころ、ぼくはある場所へ向かった。田舎に伝わる、亡き人の魂を呼び寄せる風習――「巫女参り」のためだ。自宅から相当離れた、見知らぬ土地に住む巫女のもとを訪ねる。ぼくたちの家族の事情も、父の死の経緯も、何ひとつ知るはずのない見ず知らずの女性。

 

 しかし、巫女の口からこぼれ落ちたのは、予想もしない言葉だった。「お父さんはね、『お墓を建ててくれてありがとう』と言っていますよ」頭を殴られたような衝撃が走った。

 

 父は、自分のお墓ができたことを知らない。お墓が完成したのは四十九日の当日であり、生前の父が見ることは叶わなかったからだ。それなのに、なぜ、知っているのだろう。

 

 言葉を失うぼくに、巫女は最後にこう問いかけた。「……ほかにも、いろいろな方(ご先祖)が出たい、話したいと言っていますが、どうしますか?」そのときは、自宅からの距離が遠かったこともあり、ぼくはそれ以上聞かずに帰路についてしまった。

 

 けれど今になって、激しい後悔が押し寄せてくる。あのとき、あのご先祖たちの声を聞いていれば、名前も知らない祖父の言葉を、語られなかった一族の歴史を、もっと知ることができたのではないか、と。

 

 けれど、あの巫女参り以来、ぼくの中で何かが確実に変わった。父との関係は確かに薄かった。会話も少なかった。それでも、あの世へ旅立った父は、ぼくが施したお墓開きをちゃんと見ていて、感謝してくれていた。理屈ではないのだ。どれだけ距離があろうとも、調べ切れない空白があろうとも、ぼくたちの間には、確かに「血」が通っている。そう確信せざるを得なかった。

 

 

 父と同じ道を、ぼくは歩く、格好をつけた言い方をすれば、ぼくは「自分のアイデンティティ」を探して、この文章を書き始めた。延べ1年におよぶ異常な介護の日々。父が死んでホッとしたという罪悪感。葬儀を放り出して会社へ向かった、罰当たりな自分。ずっと、自分を責めて生きてきた。冷酷な人間だと、根無し草のような男だと、自嘲してきた。

 

 けれど、こうして事実を一つひとつ整理していくうちに、ぼくの目に映る景色は変わり始めている。父親を知らずに育ち、不器用なまま「父親」になろうとして沈黙した父。そんな父を慕い、三歳、四歳のころから自転車の前かごでナビゲーターを務め、大人になってからも車を運転して連れ回したぼく。

 

 ぼくは今、父と同じ道を歩んでいるのではないだろうか。自分が何者なのか、どこから来てどこへ行くのか。その答えを探して、迷いながら生きている。父が語れなかった孤独の背中と、いまのぼくの姿は、驚くほど重なり合う。父を介護したあの壮絶な一年は、決して「異常な日々」などではなかった。
 
 父親を持たなかった父へ、ぼくが息子として、一族のナビゲーターとして捧げた、血の通った濃密な時間だったのだ。お墓開きの日、お経の響く中、残された家族三人で見上げた空を思い出す。ぼくのアイデンティティは、失われてなどいなかった。あの薄くて、けれど切っても切れない父との絆の中に、最初から、ちゃんとあったのだ。

 

 

 ぼくは声を出さず、くちびるの動きだけで父と会話する。
手話はなくとも、父にはちゃんと伝わる。
でも、不思議じゃない。これがぼくたちの普通。

 

画像
 

「おぼえようみんなの手話」という本の中の一ページ
左手甲に直角にのせた右手を上にあげる。

「ありがとう」。
音楽のたのしさを教えてくれたのは、父。

 

 

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ドボルザーク:『4つのロマンティックな小品』作品75(B.150)第1番アレグロ・モデラート

 

 やがて、じわじわりと腹の底から冷気が湧き上がり、全身を凍えさせていく。それはまるでボディーブロウのように、時間差で効いてくる哀しみだった。じっと耐えるうちに、熱いものがこみ上げ、ようやく涙があふれ出した。

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 ここに書いたのは、単なる自分あての報告書だ。絡まったモヤモヤを、ただ吐き出しただけだ。


  今朝、山からの風に運ばれ、野原にまだ熟さない赤とんぼが飛んでいる。その場所が気に入れば風に抗いとどまって、いやなら風に流され、別のどこかへ行ってしまう。


 僕は、父と同じ道を歩きたくない。

 

 父が苦手としていた犬のことで、今も引きずっている澱(おり)がある。

父に散歩を任せ、事故で愛犬を死なせてしまったあの出来事。任せた自分も悪かった。けれど、あの件から父との距離は狂い、亡くなった今も精神的に疎遠なままだ。
自分の気持ちを片付けたからってこれは無理だ。

親子そろって障碍者だ。父は見た目が聴覚障碍者。
自分は、偏見と差別が怖くて病名すら書けない。
がんなら「がん」と言えるのに。

 

がんを宣告されたとき、看護師に訊かれた。
「がんとあなたの障碍とどっちが大変?」と。
即答した、「障碍」だと。

 

 誰にも言えず、「自分ごとを自分ごとのままに」抱え込むには、あまりに重荷が多すぎ、この地はあまりに息苦しい。

だから、この土地を離れて、赤とんぼのように別のどこかへ行きたいと思う。
思い返せば、父も僕らを残して東京へ居ついてしまった人だった。あれは障碍の差別から逃れるためか、誰も知らない土地で再スタートを切りたかったのか。


 父と同じ道を歩きたくないと拒絶しながら、結局は同じように、この地を捨てて逃げ出そうとしている自分がいる。
意志と行動の乖離に足元がすくむ思いがするけれど、それでも、この風に身を任せてしまいたい自分がいるのだ。

 気持ちは整理できても、根っこはそのまんまだったことに気づいた。「根っこはおんなじ」の言葉が身に沁みる。

誰も知らないところへ逃げよう。
あの赤とんぼのように、風に抗わず。


 

Prince-Nothing Compares To You (きみは唯一無二)