集団ストーカー・テクノロジー犯罪の
加害組織の中にはカルトも含まれている
と言われています。

気になる記述が、ありました。

『聖なるもの』
聖なるものが相反する
2つの側面を持つとする点だろう。
すなわち、戦慄すべき神秘と、
魅惑する神秘である。
簡単に表現すれば、
人を惹き付けてやまない魅力と、
遠ざけずにはおかない畏怖感を
併せ持つということである。
この矛盾併存とか両義性とかは
「相反するものの一致」
という概念とともに、
たしかに聖なるものの根本的性格の
ひとつを明らかにする。
例えば、ギリシアのハギオス、
日本の(斎忌)が聖なるものと、
穢れたものを同時に表現しているのは、
決して偶然ではないのである。

彼らの聖なるものは、
この犯罪を継続して行う事、
組織が存在し続ける理想の状態。

穢れたものは、
被害者が彼らに対して
徹底的な無関心の状態や、
彼らの加害を素通りする状態。

こういう記述もありました。

聖・俗の区別は、個人についても
検証しうるある基本的な極性、
つまり、日常的なもの・習慣的なものに
何か別の形態を対立させようとする傾向の
社会化されたものにすぎない。
この何か別の形態は人に熱病のような
興奮を与える、いやそれ自体が熱病なのである。
実は、こうしたスタンスこそが重要なのである。
決して聖なるものを絶対視してはならない。
さらに次のように書いている。

聖と俗の断絶以前に、
もろもろの宗教的現象の発生状態により
近い場所で、超現実つまり、
抗し難いものに関する強烈な体験と、
どうしようもなく飼い慣らされた日常性との
対立がはっきり現れるのである。
この経験は、はじめ受け身なもので
後に進んで誘い出される場合もあるし、
はじめに、わざとかきたてられたあとで、
耐えねばならなくなることもある。
もちろんすべてが人間の理解にすっぽりと
収まるはずはない。
しかし、そこから逸脱したものが全て
「聖なるもの」のジャンルに入れて果たして
いいものかどうか。それこそ宗教学の
根本的な命題である。

熱病に冒されている。
狂気的な家族も自己が崩壊した様な
目付きも冒されているのでしょう。
冒される……侵食する、とりついて駄目にする。

最近は宗教は社交場になり、
彼らにしてみれば集会に行くか?
カラオケに行くか買い物行くか
ぐらいの気持ちだったのかも知れない。
集会は彼らにとって楽しい場所で
なければならない。
それは一度だけの楽しみではいけない。
継続して参加し、何度も何度も。
そのうち、この組織の正式な一員になりたい。

そして、この組織で責任を担う自分でありたい。
あとは、組織の権力が選民思考を益々増長させ
倫理観は信仰によって大義になり閉鎖的な
組織の中で、どんどん大衆から離れていき、
楽しかったあの初めての集会には
戻ることはできない。

神聖と思っていた宗教は、
世俗的で実利主義な……楽しいとは
程遠い世界に取り込まれている事に気づく。

私が彼らを見て知ったのは
信じたいという気持ちは
他人に強制されて信じる行為ではない。
また、脅迫されて信じる行為でもない。
自由の中で自然に
相手を心から信じる行為だと思う。

人は集団でいると倫理観は薄れるという。

集団の中でいても個人の自由な発言など、
多分あの組織内では認められる筈はない。
自由だ平和だというカルトですが、
情報操作され騙しあいに満ち々ている
信仰の深さとは狂信的な真面目さなのか、
単なる自己主張なのか分かりません。

なんせえー?彼らのみ正しいと思う
間違った事実を一番知らないと
いけないのに。

権力内にいると、人は真実を
わざと知りたくないと思うのかも知れない。
それが普通なのか、普通ではないのか?
まだまだにやり私には理解に及ばない。