いまの本邦社会を広く覆っているように思われるのが,理想とか理念とか原理原則みたいな,いわゆる「キレイゴト」を言う人間は信用できないという考え方である。ひどいのになると,「キレイゴト」を語る人間を極端な不信の目で眺め,自分の都合や欲望剥き出しのゲスな意見を表明する人間をかえって「ズバリ本音」だの「歯に衣着せぬ正論」などと持ち上げてみたりする。
 こういう考えに至る道は様々で,たとえばキレイゴトを奉じて従ったところで世の中で幅を利かせるのはゲスな「本音」をさらけ出すやつばかりという惨憺たる本邦の社会状況だったりもするのだろうが,一つ無視できないのが,「キレイゴトを言う人間に騙されてバカを見るのはイヤだ/恥ずかしい」という一種の自己防衛本能のようなものなのではないかと思っている。
 常日頃ものすごくいいことを言っている人がいて,その人の言うことを全面的に信じて支持していたところ,実際には言ってることとやってることが全然違った,なんてことはよくあるし,そのときに感じる失望は場合によっては自尊心を傷つけられるくらいに大きくなることもある。「信じた自分がバカだった」という深い失望とともに偶像をそっと飾り棚から下ろすような経験は,人間長く生きていれば誰でも一度くらいはあるだろう。そんな経験を繰り返すと,「信じて裏切られるくらいなら誰も信じないほうがマシ」というふうになり,挙げ句には,「どうせ誰も信用できないんだから初めから身も蓋もないこと言ってる人間にやらせとけば何があっても傷つくことはない」というところまで行ってしまったりするのではないか。
 そして現状の本邦の政治情勢を考えるとき,「信じた自分がバカだった」という気持ちを多くの有権者に抱かせたのが,おそらく民主党政権の「失敗」だったと思われてならない(リーマンショック後の世界大不況下の政権運営に加えて,1000年に一度とも言われる大震災に見舞われたりと不運続きだった民主党政権の施策が現実に「失敗」と言えるものかどうかは疑問の余地なしとはいえないが)。あのとき,「ダメな自民党にお灸を据えてなんか正しそうなことを言っている民主党に託してみようか」と,ほとんど初めて自発的に投票権を行使した少なからぬ有権者が,現実に政権に就いた民主党の施策に大きく失望し,「信じて託した一票」を裏切られたという思いを強く抱いたことであろう。「エラソーにごたいそうなこと言ってたけど実際やらせてみたら全然ダメだったじゃないか」という有権者の失望は,その後の政治不信と腐敗政権を許した大きな原因として無視できないものと思われる。
 だからまあ,当時政権にいた現野党の面々には,当時のことを深く反省してもらわなければいけないのは確かではある。しかし,正しそうなこと言ってるやつが信用できないからといって,信用すべき高潔さなんか初めから期待されてもいない連中に任せるとどうなるかは,9年にわたる無能な現政権の腐敗しきった政権運営が如実に示すところである。主に弱者を守るための概念である「人権」や「平等」,「公正」なんか初めから知ったことじゃない,と言ってはばからない連中には,当然のことながら危機に臨んで人間の生活も命も守る気もなければその能力もないのだ。結局のところ,いかに裏切られる可能性があろうとも,「キレイゴト」「正しそうなこと」を言っているかどうか以外に,政治家を選ぶ基準があるとは思われない。
 幸いにも,というべきか,どんなに遅くとも今年の秋には衆議院議員の総選挙があることになっている。そこで有権者の皆さんにはもう一度だけ,ご自身の目でしっかりと人物と所属政党を見て,「キレイゴト」を言っている人間を信じて一票を託してみませんかと申し上げたい。信じて騙されたっていいじゃねえか,初めから身も蓋もないこと言ってる人間にやらせとけば後でそいつがなにしでかしても傷つかなくて済むし,なんて言ってる場合じゃないよもう。