平川新「戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略」中公新書,2018

 

 秀吉の朝鮮半島侵略の意図するものはなんだったのか,幕府が禁教と外交窓口の一元化を進めていた最中になされた政宗の遣欧使節の位置づけ,スペインとポルトガルが世界の覇権を争い,イギリスオランダがそれに追随していた大航海時代,なぜ日本は彼ら列強の植民地にならなかったのか。筆者はこれらの疑問に対して,世界史的にみた戦国時代の日本の位置づけに関する新たな視点から説明できるのではないか,とする。
   筆者が指摘するのが,当時の西欧諸国で日本に言及される際に使用される「帝国(Imperio)」及び家康に対する「皇帝(Emperador)」の呼称である。筆者は,この「国王(Rey)」ではなく「皇帝」という呼称(なお,スペイン国王すら呼称は「Rey de Espana」である)に,当時の日本が彼らからどのように位置づけられていたかを読み取ることができるという。
   戦国時代は,群雄が割拠して軍拡競争を繰り広げた時代であった。1543年にポルトガル人がもたらしたとされる火縄銃が,戦国の終わりころにはある推計では数十万丁を数えるまでになっていたとされるとおり,当時の日本の軍備は世界でも突出したものであった。戦国も末期になって統一政権が生まれ,その政治力をもって軍事力を集中運用できるようになると,はっきりとそれは西欧列強にとっても脅威として認識されるようになった,というのが筆者の議論である。日本に対する「帝国」の呼称は,そうした日本の国力を背景にしたものであるという。
   そうした日本の国力を対外に示したのが(失敗に終わったとはいえ)秀吉による朝鮮侵略戦争であり,突如現れた軍事大国日本は,当時東アジアで植民地獲得競争をしていた西欧諸国に大きなインパクトを与えたはずである(なお,筆者は秀吉の朝鮮侵略を,従来言われているような秀吉の乱心などではなく,当時世界を征服してキリスト化しようと目論んでいたスペイン・ポルトガルに対する東アジアからの挑戦,つまりスペインなどに明を取られる前に自分たちでこれを征服しようとしたもの,と位置づける)。
   そして,政宗による遣欧使節だが,これについては幕府が外交を一元管理するまでの過渡期の,大名による最後の独自外交と位置づける。幕府としても最終的にオランダに貿易相手国を一本化するまでに,スペインとの貿易も模索していた時期であり,メキシコを植民地にしていたスペインとの貿易ができれば太平洋側の窓口として江戸での商取引が可能というメリットがあったこと(東アジア側の窓口としては江戸は地理的に不利だった),依然豊臣家が健在であった時期のことで,江戸の北に大きな勢力を持つ政宗の貿易の希望を無視できなかった,という事情が指摘される。結局スペインが布教とセットでなければ貿易を認めなかったことから使節は初期の目的を果たすことができず,豊臣が滅亡して幕府側に政宗の要望に配慮する必要がなくなったこともあり,大名の独自外交も終わりを告げることになる。
   結局のところ,日本が植民地にならなかったのは,幕府権力が全国を統一し,その政治力をもって強大な軍事力を統一運用できるようになったためである,と筆者は指摘する。スペイン人らは布教と植民地獲得のためには武力行使も辞さなかったが,これをはねつけるだけの実力を戦国期に蓄えていたからこそのことであったという。最終的にスペインもポルトガルもイギリスも排除できたこと,オランダのみに貿易を許し,オランダが出島に押し込められて商売だけ許可される,という屈辱的な扱いを敢えて受け入れたこともその実力が背景にあったと考えるべきだという。
   秀吉の侵略の意図するところはどうなんだろ,と思うが,まあ当時の日本の世界史的な位置づけに関する議論は言われてみればなるほどなあ,と腑に落ちる。日本人の多くは「専守防衛を叫び外国に侮られる」なんて自己イメージ持ってるようだけど,世界史に現れた時期から大部分は東アジアの脳筋ヴァイキングだったんだよなあ。そういえば江戸時代の日本の自己規定は「武威の国」で,それが崩れるのが幕末の動乱と考えることもできそう。