師走…特に年末が近づくと母と兄のことを思い出す。
 
 
15年くらい前の大晦日の夜に母が脳出血で倒れ救急搬送された。
家族での宴が終わり、一仕事終えた後の風呂で倒れた。
一命は取り留めたが後遺症で歩行困難になった。
 
数年後に認知症を発症。
そして要介護2と認定された。
 
私は神奈川で働いていたため、母の介護は兄に託された。
長男である兄は責任感が強く母の面倒は自分が見るのが当然だと、仕事をしながら精力的に介護をしていた。
兄の介護は母の願いでもあった。
 
代わりにと言ってはなんだが、私は経済的に兄と母を支えた。
正直なところ私は介護から逃げ腰だった。
 
年末年始やGW、お盆には私も帰省がてら母の面倒を見たが、とても仕事をしながら介護などできる状態ではないと実感した。
 
ちなみに平日の日中はデイサービスを利用していた。
 
母は日中は静かにしているが、夜になると人が変わったように、アルミパイプ製の歩行器を使って家の中を徘徊する。
 
夜中に1~2時間おきに母の徘徊に起こされ、とても寝てなどいられない。
 
兄は飛び起きて母を少々荒っぽい口調で叱る。
一度転んで大腿骨を骨折したこともあったのだ。
 
「これがほぼ毎日だ…」と眠い目を擦りながら兄は嘆いていた。
寝ることができずに、仕事に行けない日も少なくなかったとも。
おかげで収入も減っていた。
 
それでも兄は懸命に介護を続けた。
 
 
2018年の夏、母は兄に看取られてこの世を去った。
 
会社で残業中に兄から連絡があり、私は妻とともに夜中に車で帰省した。
 
白く小さな母の顔を見てもすぐには涙がでなかった。
まるで寝ているようだ。
 
葬儀は家族葬にした。
葬儀中も少々気が張っており、やはり涙は出なかった。
 
無事に葬儀が終わり、我々遺族はマイクロバスに乗って火葬場へ出発した。
 
母と暮らした懐かしい風景が車窓を流れる。
同時に母との思い出が走馬灯のように次々と頭に浮かんでは消えた。
 
途中、マイクロバスは日本一の長さを誇る”信濃川”にかかる「昭和大橋」を渡った。
 
家族で白山神社にお参りに行くときは必ずこの橋を歩いて渡ったっけ。
本当にこれで最後なんだと思うと自然と涙がこぼれた。
 
もう涙を止めることは出来ないと諦めた。
ハンカチも出さずに、窓の外を眺めながらボタボタと礼服に涙が染み込んでいく。
 
 
そう言えば信濃川は長野県から新潟県を通りやがて日本海にそそぐ。
長野出身の母の人生が重なる。
長野で産声をあげ前途多難の人生という川の流れに身を任せ、新潟で家族に見送られ、やがて日本海という”黄泉の世界”に渡るのだ。
(少々妄想が過ぎてしまった💦)
 
 
火葬場に到着すると兄から
「○○、やっと泣いたな。」
(○○は私の下の名前)
兄は私をずっと見ていてくれたのだ。
涙を流さない私を心配してくれていたらしい。
 
実は当時私はメンタル不調でクリニックに通っていた。
兄は私を気遣い度々電話で元気付けてくれていた。
 
自分のことより、家族、母、兄弟、友人をとても大切にする兄であり、尊敬する兄であった。
 
 
つづく