息子達が幼かった頃、寸暇を惜しんで様々な本を読み漁った。


息子が幼稚園に行き始めて、牧師でもある園長先生の「子育て研修」を兼ねた聖書の話を聴く会に毎月出席し、母の会の読書会に参加するようになったこともある。

が、「嫁」であり「母」であり「奥さん」であって自分の名前で呼ばれることがなかったその頃に、独身だった私、なんなら学生だった私を思い出させてくれる「読書」は砂漠の中の井戸のように渇きを癒してくれた。


ある時、園長先生はV.フランクルの『夜と霧』を読んで、子ども達を「それでも人生に“yes”」と言える人間に育てなさい。

勉強ができることとか、サッカーが上手いことは素晴らしいかもしれないけど、長い人生の中できっと挫折する時が来る。

こんなに変化が激しく先の見えない(1994-2000のことだった)時代に「今、有望そうな道」が彼らの時代も有望とは限らない。

10年頑張って極めたことがチャラになっても頑張れる人になることが大事です。

アウシュビッツにいて生き抜いた彼のことばにきっと学ぶことは多いはずです…と仰った。

「なるほど」と深く印象に残った。


人生の始めに10年を過ごした街西宮が壊滅し、青春の思い出のある神戸でビルや高速が倒壊しているのを知り、人生に“yes”と言い続けることの意味を思った覚えがある。


程なく夫の健康に不安が生じ、

明るいと信じた日本の製薬業が斜陽になり、

自分も働いていなければ生活が不安になり、

…それでも人生に「yes」と言い続けなければ。

息子達に背中を見せ続けなければ。

と、必死の15年の間、それが生きていく心の支えだったような気がする。


老いた3人の親を介護し、

自分も介護されるようになって、

治癒の望めない病のターミナルが見えた今。

もう一度読み直そう、と、病床で解説本も含め4冊を一気に読んだ。

若い頃よりもずっと深く考えることができた気がする。


明日が来なくても、変わらず日常をすごすこと。

人生の意味は、終わってみないと決まらない。

すでに過ごして来た家族や友人達との時間は、私がいなくなっても変わりようがない。

家族や友人が先々思い出すのが、笑顔で楽しそうな私であると良い。

残された「できること」の範囲で機嫌よく過ごしている私に家族の気持ちの負担が軽くなれば良い。

そういう人生が“yes”なのだと思う。


考えてみたら、生き物が「生きる」のが楽しいだけに満ちた楽ちんなものだった時代はない。

たまたま良い時代に生まれ育って、平和で、飢えもせず、医療も介護もそこそこ手に入って…なんで私だけがこんな目にあうのか?と悩むのは違うかもしれないと思いあたった。


地球が活動期に入り、大きな地震が頻繁する。

気候が変動して、台風や大雨が頻繁する。

とんでもない乾燥で山火事が起こる。

食べ物が手に入らなくなる…

そんな時代を生き延びなければならない次の世代は、それでも人生に“yes”と言えるのか?

私が、どういう選択をすれば、彼らは励まされるだろう?


天が私に試練を与えたのは、どんな意味があったのだろう?


すっかり「要支援」「要介護」になり、生産性のない存在になってしまったけれど、許されてもう少し生きていこうと思う…

答えは、きっともう少しだけ先まで持ち越すことができそうだから😊


(追記)

突然、明日退院すると決まった。

在宅での介護支援の事は、帰ってから決まる。

保険の理屈に合わせて、病人は色々と我慢するもののようだ。

それでも十分配慮して貰えたんじゃないだろうか…???

粘った甲斐あって、リハビリの成果が表れ不随意運動のでない日は、自己破棄ができるところまで来た。

隔日でパウチは貼り替えねばならないが、夫の手技のトレーニングもしてくれた。

家庭での初回交換に合わせて訪問指導に来てくれるし、定期的にWOC看護師にフォローして貰えるよう通院もすることになってるらしい。


はじめから、ちゃんと説明してくれたら良かったのに😅

不親切なんだか、面倒見がいいんだか…

というわけで、しばらくご機嫌良う。