初回放送は1887年11月末。
その年の9月、お彼岸の中日の夜明けとともに父は旅立った。
胃癌と診断されてから1年半。
再発から3ヵ月あまり。
享年 満56歳9ヵ月。
ドラマの中の杉浦直樹さんが、晩年の父にそっくりでTVの前から動けずに見ていたのを思い出した。
山田氏の追悼番組として再放送されたものを、夫と二人で見た。
初回放映当時は、遺される家族の物語に気持ちを向ける余裕はなく、「告知」されずに逝った人の気持ちにばかり心を囚われていたが…
ネットの作品解説をみると、主人公は笠智衆演じる老いた父親。30年あまり前に男をつくって出奔した杉村春子演じる母親と死期の迫った息子の最期の過ごし方をめぐってまた揉めながら、治らないことを悟った息子を病院から連れ出し一家の思い出の地、蓼科で過ごす時間を描く。
「家族の再生の物語」とある。(ホントに⁈)
「誰だって死ぬんだ。早く死ぬからって偉そうにするんじゃない」
「そっちは80過ぎでしょう?こっちはまだ51歳だ。少しは偉そうにしたっていいじゃない」
(正確に覚えてはないけど、そういう台詞のやり取りがあった)
初めて見た時、私は29歳。
まだ結婚したばかりで子どももいなかった。
56歳、バリバリの現役で社会的に責任のある立場だった父から「少しは偉そうにモノを言う」機会を周到に奪い取って「1日でも長く生き延びる闘い」を無断で強要していた。
それを悔いる気持ちに押し潰されそうだった。
更年期鬱からやっと抜け出したばかりの母が、先のない病人を支えることなどできない、というので黙っていることを選んだ。
30年前のその頃は「告知」しないのが普通。
ところが、主治医は「この人に限っては告知して自分の手で人生を閉じる準備をさせてあげるべきだ」と主張した。
主治医の言う通りだと思いつつ、最期と向き合う父と二人きりで鬱っぽい母が耐えられる気がしない。
逝く人と遺る人と…。
遺される母を優先したのは否めない。
本人の同意なしに、有効かどうかわからない辛い積極的治療をするかしないかを決める。
もう月単位の余命だとわかっているのに、本人が自分で人生の後始末をする機会を奪う。
自分が不治の病と向き合うことになってみると、冗談じゃない!と叫び出したくなる態度だ。
唯一、夫だけが「告知」するべきだと主張していた。
母が「絶対にバレないようにしてね。でも、私の時はちゃんと言って頂戴。皆んなに挨拶して逝きたいから」と言うのを聞いて、母の人間性に疑問を口にした。
とにかく『今朝の秋』をもう一度見て、思うことが多かった…
特に若い時は、想像もできなかった「老い」からの視点。
「誰だっていつかは死ぬ」という自明のことが昔はちっともわかっていなかった。
若いと言うのは傲慢なものだ。
父を見送ってから、これでもかこれでもかというくらいたくさんの人を見送った。数えたら両手では足りないくらいに30-50代で逝った親しい人たちがいた…
子どもを育てること、親を見送ることで「人生」の自分の知らなかった(自分では覚えていない時期やまだ経験しない、けれど必ずやってくる未来の)ことを想像できるようになる。
たくさんの涙を通して「人生」というものを考えた。
「誰だっていつか」
「それがいつかは誰にもわからない」
ならば、それを覚悟で満足して旅立てる様にする事が「悔いのない人生」ではないのか…
自分のことを言えば、治療は「生き延びるため」にするのではない。
生きてるうちにどうしてもしておきたかったことを一つでも実行する時間を稼ぐために(するしかないから)不本意ながら「する」のだ。
去年の夏の段階では、夫とも主治医とも共有できていなかったBSCとしての化学療法という選択。
目標は、元気でやりたいことを1日でも長く続けること。
しんどくて我慢するのが無理なら止めることを選ばせてもらえるという意思疎通が主治医とも夫ともできる様になって視界が開けた。
ドラマに戻る。
どんなことをしたって治してみせるわ。
苦しんだら世話してやるわ。
と言う母親。
もう先がないなら動けるうちに「行ってみたいなぁ」という息子の望みを実行してしまう父親。
息子の限られた時間が楽しくなったのは、様々な家族の思いの総体だった。
そして、いなくなった息子が結び直していった父母の絆は老いた彼らの胸に灯り続けるのだろう。