声が出せない→上手く言葉が発音できない

手が動かない→ちゃんとした字が書けない

という所からスタートして、

コミニュケーションがとれる程度なら話せる。

大きな字なら少しは書ける。

(ハガキに数行、封書の宛名、ぐらいなら書ける。)

スマホのタッチパネル入力も日によってはできる。

(天候の変わり目には、手が躍るのでできない)

キーボード入力なら多少手が震えても、時間をかければできる。

(ダブルクリックも含めマウスは上手く使えないけど。)

音声入力は、発語が不明瞭で聞き取ってもらえない。


人は自分を表現し、コミュニケーションが取れない情態ではとても不安定な存在になる。

はじめは、見当識も失い状況も判断できなかった。

途中から、以前の記憶が復活していわゆる「知識」も戻ってきたけれど、その前はどうやら周囲には理解不能の言動をとっていたようだ。


鏡が無ければ、自分の顔がわからないのと同じように、周囲とやりとりできなければ「自分」という存在そのものがあやふやになると実感した。

これは不安だ。

原因はわからないし、自分に問題が起きたという自覚はないから周囲が変わったと思う。

被害感情に支配された…

不当に扱われている!と。


認知症と呼ばれる情態、高次脳機能障害の状態、はとんでもなく孤独で不安な所から始まる。

見当識が復活し、少しは思考力も戻ってきたのに周囲とやりとりして状況を確認することもできない。

周囲から見ている人にも、以前の人格が変わってしまったように見えるので理解力や思考力も失ったかと思える。


ただやりとりの手段に滞りが生じただけで、不当に情報が欠落してどんどん負のスパイラルに陥っていく。

幸い、良いセラピストに恵まれたので、「実年齢相応」と想定されるものではなく、以前のレベルと思われるところ、に目標を置いてリハビリを励行してくれた。

けれど、失われた機能を振り回してでも果敢に働きかけられなければどんどん置き去りにされてしまう。

これには、家族が間に入って「取り戻せないか?」と働きかけてくれたことも大きい。


言葉の通じない浜辺に囚われて身動きができなくなったガリバーの能力を誰も理解できなかったように、コミュニケーションの障害は大きな躓きの元になる。

反応が無いように見えるからと言って、理解できない、とは限らない。

理解できないとしても、言葉そのものがわからないのか、字がわからなくなったのか、記憶が失われて情報が照会できず「なんのこっちゃ?」になっているのか、によって介入の方法は違うだろう。


残念ながら、忙しい集合介護の場では個別の対応は無理。全員に当たり障りのないプログラムが用意される。

個別リハビリの時間はフィジカル・エクササイズだけでなく、いわゆる「脳トレ」でも大事だ。


デイへ行くと、元ピアニストも画家も幼稚園教師も校長先生もやり手の商社マンも農家のおばちゃんも同じようにゴム体操をし、漢字を思い出すブレーンストーミングをし、野菜の名前を羅列し、都道府県と県庁所在地を言わされる。

黙って微笑んでいる車椅子の彼は、製薬メーカーで研究者だった。

化学式を書いて見せたら、理解して目を輝かすかもしれない。

ピアニストの彼女は、指の体操なら指導しているスタッフ以上のことができる。

農家のおばちゃんは、スタッフが知らないような野菜の名を延々と挙げ続ける。

在外駐在員だった商社マンは時々英語で曜日を言う。(認知症だから間違うけど、英語が間違いなのか見当識がおかしいのかわからない)


デリケートな領域の障害であるほど、個別対応が有効で大事。

癌治療は標準治療でかなりカバーできるけど、

脳障害対応の標準化は突出した神対応を引き摺り落とす、というデメリットもあるような気がする。