今日からブログを始めようと思ったものの
どうやって何を書こう…
悩んだ結果、
私にはNICUの看護師さんとのやり取りをした
宝物の日記帳があります。
これを読みながら、私はこの頃
どんな風に思って
どんな風に乗り越えたのかなぁとかいうのを
お伝えしてみようかなと思いました。
樹くんは 今から2年と8ヶ月前の
5月25日、22週2日、498gの大きさで生まれました。
5月25日 生後0日の日記には…
たくさんの医療徴事者の方たちに助けられて
あなたは生まれてきてくれました。
生まれてきてくれてありがとう。
看護師さんからは
入院後は採血レントゲンの検査をしました。
夜は時々手足を動かしてました。
夜初めての排尿がありましたよ。
とお返事がありました。
当時の写真は、本当にパパにそっくりで
「鼻が高くて、まゆげが立派だね」
って付け加えて、多分私が書いてます。
その日のことを思い出すと、
みんなのバトンで生きる道を用意されたように進んで行ったのを思い出します。
私は、あの日、上の子達を幼稚園に迎えに行って、帰りがけにお腹が痛くなって、夫に電話して状況を伝えて、帰ってこなくていいからとか伝えたものの、上司がとにかく帰りなさいと言ってくれたらしく、すぐに帰ってきてくれた。
クリニックに電話して、もう既に胎嚢が出ていて、産むしかない状況と言われ、希望の大学病院は空きがないと言われ断られた。
もうひとつの病院は受け入れOKということだったが、私は怖くてたまらなかった。
救急車が到着するまで、クリニックの分娩台にあげられ、
え?!ここのここで生むのかみたいな感じでいて、救急車に乗ってくれるのは、研修の先生?みたいな状況になってて…
そしたら、その日の当直の先生が来て、僕が一緒に乗っていくからって登場した。
その先生は、上の子が切迫で入院していた時の担当の先生だった。
そして上の子が切迫で入院中していたとき、私は怖くて怖くて毎日泣いていた。
その時に、とても良くしてくださった助産師さんも来てくれて、救急車に乗るまで、ずっと私の手を握ってくれていた。
そして、私たちを受け入れてくれた病院は22週の赤ちゃんをみてくれた実績のある病院で、赤ちゃんの心臓や消化器系の手術も行える病院だった。
当時はコロナ禍の真っ只中だった。
私は陣痛で熱発していて、病棟に入るにはPCR検査が必要だった。
検査結果が出るまで1時間半、内診もしてもらうことはできず、先生と助産師は予防服とマスクをして私たちの対応をしてくれた。
当時の自分は、コロナは感染力の強い風邪くらいに思っていたが、改めて免疫の低い人を守るために、医療従事者は神経をすり減らしながら守ってくれてたんだと身に染みた。
医療、薬は悪とか思ってたからね、当時の私は。
ただ、東洋医学、西洋医学、食。
それぞれ得意分野があるだけなのに。全ては私たちを守ってくれるために存在してるだけなのに。
そして、陣痛にもだえながら、私は先生に聞いた。
先生。22週の壁ってどう捉えたらいいんですか?助かる見込みがあるってことですか?
22週すぎたら、蘇生の義務がこちらに発生するんです。
この病院のNICUには、22週過ぎたら絶対に助ける!と強い意志を持った先生がいます。
だから私たち産婦人科医も、24時間365日いつでも全力で、自分たちのできることをすると決めています。
後々聞いたのだが、病院は数年前に外資系に買い取られて、先生たちの総入れ替えがあったと噂で聞いていたのだが、産婦人科と小児科は先生たちは辞めなかったそうだ。
結局私は、陣痛を止めるいちばん強いとされる薬をMAXの速さで投与したが陣痛は止まらず、臍帯も下に落ちてきており、先生方の判断で、スタッフの揃っている今日に緊急帝王切開をすることになった。