『えりちゃんはいつも元気が良いね~』
『大きくて、明るくて良いね~』
人に褒められることを主食として育ってきた幼児時代。
元気が良くて、明るいことがこの世の善そのものであると信じてきた。
自分を主張して、活発でいること。周りの子供の誰よりもはやく声をあげて主張すること。
それが大人に受け入れられることなんだと思っていた。
自分を主張しすぎて協調性に欠ける。周りのお友達の気持ちを考えずに、常に先頭に立とうとする。
徐々にそう評価されるようになったのはいつからだったか。
それでも正しいと思う事や、やりたいと思うことを声を出して主張することの何が悪いのか。
そこまで開き直れるほどに思春期を迎えた少女は強くはいられず、かといって、既に周りに張り付いてしまった『学級委員タイプ』のレッテルを破り捨てられるほど卑屈にもなれず。
どうすれば、目立つことなく、自分を主張できるのか。『誰か、先生の手伝いをしてくれる人』という問いかけの後の静寂ではりつめた空気に、手を挙げることなく、平常心でいられるのか。
(この空気は未だに耐えられるとは思えません)
14歳になった私は、声をあげないで、しかし誰よりも先に、人にやってほしいと思うことをやる、という方法を編み出した。今まで『せんせーい!男子が掃除をしてくれませーん!!!』と真っ先に言いつけていた、いやみな女子だった自分から、とにかく誰よりもはやく、何も言わずに、一人でさっさと掃除をする。周りが何をしようと、とにかくやる。無言ですべての机を撤去する。
そうすると、声をあげていた時よりも、クラスメイトは協力してくれていることに気がついた。
彼らも『静寂』に耐えきれなくなったのだろう。
ある日、道徳の時間の課題に、クラスの誰かに表彰状を渡す、という課題が上がった。
私はクラスのほぼ全員から表彰状をもらうことになった。
恥ずかしくて、そして自分が、ますます嫌になった。
クラスメイトに、『なんとなくこの子に表彰状を渡さなきゃならない』という空気にさせた自分が
嫌になった。表彰状は読みもせずに、誰にも見せず、束のまま押入れにしまいこんだ。
普通になりたいのに。自分のしたいことをしようとすると、普通ではいられない。なんとなく、クラスメイトから線引きをされている自分。『あの子は少し違う』
自分が人と違うなんて当たり前のことで、同じ人間なんてどこにも存在せず、
もうこれ以上面白いと思う人にはなかなか出会うことはないだろうと思っても、それぞれの人生のステージや場所で予想を上回る面白い人々に出会ってきた。自分は特別違う人間でもなかった。
私をそのまま受け入れてくれる人たちと付き合っていけば良い。
そのまま受け入れてくれない人たちとは、それなりに付き合っていけば良いんだ。
自分をその他大勢になじませようとするなんて、できない。
その他大勢の、平均なんて、存在しないから。
思春期から、今まで長い時間をかけて、自分ってなのはなんなのかを考え続けてきた。
苦い思いもたくさんたくさんあった。ここまで強くなるまでに、何度も泣いてきた。
『ぼく、やりたいー!ぼくがやるー!!!』とお友達の誕生日会で周りの子を押しのけ、大人の足元で飛び跳ね続ける息子を見て、この子もこの先、自分と向き合っていくために、つらいことがたくさんあるんだろうな。。
子供を育てるってことは、人生をもう一度なぞりかえすことですね。
としみじみと思ったのです。という秋晴れの日の日記なのです。