親が教えてくれたこと。 | 米国のにほんじん。

米国のにほんじん。

2004年に渡米。
米国の冷蔵庫の通称を持つひえひえのミネソタ州にひんやりと在住。
2 marriage, 3 kids, one full time job and 1 divorce laterの日々のことを、
つれづれなるままに日暮らしてきにメモ。

『これであんたの顔、焼いてやろうか』

鼻の先に、100円ライターの火をつきつけられた。


夏の日のほてりをたたえたままのアスファルトの駐車場に転がされて、
何人にもおさえつけられていた。

今から考えると大したことはない。おさえられていたといっても14、5歳の少女たちだ。


しかし、暗い駐車場で、取り囲まれて、ぼこぼこにされていた身体だけは大きい12歳の私には、
髪を金髪にして、真赤な口紅をして、ヒールのあるサンダルのかかとをふみつぶし、
たばこをくわえた彼女たちは、キョウフ以外の何者でもなかった。

22年前。
地元の夏祭りの夜のこと。

小学6年生だった。初めて友人と連れ立って、子供だけで夜のおまつりに出かけた。
母が髪におおきな髪飾りをつけてくれた。

背が高かったからなのか。きっと目立ったんだろう。

不良女子中学生にからまれた。
誰もいない駐車場に連れて行かれて、お金を取られた。
姉がその中学校に在籍していた友人たちだけ先に解放されて、一人でたたかおうと、
少女の群れにかかっていった私だけが、駐車場で、おさえつけられて、顏に火をつけてやろうかとおどされていた。

『このことを親や、学校やセンコーに行ったら、絶対におまえの家まで行って、家ももやしてやるからな。
うちらのことを一言でもしゃべったら、いきていけなくしてやる』

そう言われてさらに顏にひざげりをくらった。

どうやって家に帰ったのか。全くきおくにない。
でも、ぼろぼろになってしまった髪飾りと、傷だらけの身体と、はれあがった顏を、どうやって親に言い訳しようかと、そればかりを考えていた。


『絶対に、言っちゃいけない』


怖かった。これから中学校に入って、彼女たちと顏を合わせるのが怖かった。
毎日隠れながら、学校に行かなくちゃいけないの??


なんとか言い訳を考えながら家に帰ると、
母が駆け寄ってきて、おそろしい顏で私に向かって聞いた。
『だれにやられたの?!その子たち、どこにいるの??!!!』

なんてこった。もうすでにばれている。

なんとか隠そうとおもっていたのに。どうやら先に解放された友人が、家に連絡してくれていたらしい。

困ったことになった。家をモヤサレチャウ。

『おかあさん、大丈夫だから。なんでもないから。何にもしないで。』

親に話したとばれたら、フクシュウされちゃう。春から中学校に通えなくなるから、おねがいだから
何もしないで。と私は両親に懇願した。

リンチされたという事実に、完全にふるえあがっていた。
何もしてほしくなかった。

泣きながら何もしないで、という私を、母はふりきった。
同様に恐喝された友人の儭たちは、ことをおおげさにして、子供たちにまた危害がおよぶのをしぶった。
でも自らも教育者である母は許さなかった。

このまま、何もなかったことにしてしまうのを。

今まで一度も学校に行くのをいやがったことのない娘が、中学校に行きたくないと言い出したことを
許さなかった。

兄たちが通う中学校にすぐに連絡して、あっというまに当事者のフリョウたちを洗い出した。
学校の教師たちがあいまいにしようとしたのも許さなかった。
少女たち全員と、少女たちの両親、校長先生、学年主任、少女たちの担任を一つの部屋に集めて、
母は大演説をくりひろげたらしい。
単身で遠くに住むので行けないとしぶる少女の父親も一人残らず呼び出して。

あまりの母の剣幕に、なきだす少女もいたらしい。
そのなきだした少女に向かって母は言った。

『泣いてるんじゃない!父親と母親にはさまれて、あんたに泣く権利なんかない!!うちの娘はたった一人で、誰もいない夜の駐車場で泣いてたのよ!!!あんたに泣く権利なんてない!!』

家に帰ってきた母は、私にこの日のことを何も言わなかった。
ただ、『もう心配するな。』とだけ言って、
大阪でやっていた花の展覧会に、ふたりで旅行に連れ出してくれた。

この日のことは、中学校に入ってから、その場にいた学年主任の教師から聞いたことだ。
その教師は

『おまえの母ちゃん、すげえなー。』と、机に足を投げ出して、言った。

『おまえもすごいよ。』さらにその教師は続けた。

中学校に入学して。どうやって隠れようかとおもっていた不良の少女たちの方が、私を避けていた。
廊下で会っても、目を離された。

家をもやされることもなかった。

目立っちゃいけないとおもっていた私は、中学校で生徒会長になって。
毎週朝礼の壇上で、あいさつしていた。
波風をたてないようにしましょう、といった友人たちは、なぜかフリョウグループに入って行った。


あの時母が行動でおしえてくれたこと。

それはきっと『尊厳』ってものだったんだとおもう。


自分は自分で、どうどうとしてればいい。

ひどい扱いを受けたら、ひどい、間違っている、自分はおこっている、と主張しなくちゃならない。

あの時親が言葉じゃなくて、行動でおしえてくれたことが、今の私の根幹なんだ。

それがあるから不器用になってしまったのか。それがあったから、離婚にふみきった。

でも、それを子供たちにも伝えていきたい。


『尊厳』を失っちゃいけない。

納得行かないことを、納得行かないままにしては行けない。
自分の正しいと思う道を、自分の責任で。

あの夜にひざげりされた左のほほぼねが22年たった今も、ずきずきと痛む。
で、その痛みを感じるたびに、

お母さんの愛を、ひしひしとかんじるんですよ。

てな日記。

これからオトナのおでかけの時間です。
それはまた、別のお話。


敬具。