毎週土曜日、日本語補習校で駐在員やハーフのお子ちゃまに日本語を教えている。
といっても、『日本に帰っても日本の教育についていけるように』と設定されているため、日本と同じ文部省が定める教育にのっとって授業は進められている。
日本語、といっても日本語会話ではない。
私は主に中学生を教えているのだが、
『竹取物語』の古文をやったり、『走れメロス』を掘り下げたりしている。
生徒もやけに英語の発音が完璧なこと意外は、日本の子供と大差はない。
日本と同じ、といってもやはり生徒によっては中学生でもいまだに日本語の読み書きがおぼつかない生徒もいるため、練習のために日記や詩を書かせている。
中学生と言えば、『思春期』自己の確立が始まり、人生の意義について問い始める時期である。
こちらでは『difficult age』(難しい年頃)なんて言われる年頃。
思い起こせば私自信も、顔のにきびに心を痛め、年上の大学生に恋焦がれ、自分が生を受けた意味について哲学し、なにかと忙しい日々であった。
『大人はわかってくれない!あたしはきたない大人になんてなりたくないやいっ!』なんて文章に、だれも読むわけないのに
丁寧に目次やページ数までふって勉強机の引き出しにこっそりしまっていたものである。
さて、そんなころから10年が過ぎ、生徒の書いた文章を前に毎週当惑する自分がいる。
『彼を失った悲しみに、
私の心も水のように流れてしまえばいい。
目を閉じればそこにあなたがいるのに、
目を開くとあなたに手が届かない
ロンリーハート』
なんてゆう詩に、なんとコメントすれば良いのか!?
『あと1ヶ月すれば別の人に出会えます、元気を出して』
『5年後の成人式で、こいつと付き合わなくて良かったと胸をなでおろします。心配しないで!』
書けるわけがない。
自分も経験しただけに分かる。彼らは本気だ。
中途半端なコメントをしたら、刺される。もしくは撃たれかねない。
中学生の時、胸を痛めていたいろんなことや、社会の理不尽さについての解決法は、いまだに見つかっていない。
自分では処理しきれないたくさんの出来事が降りかかり、胸を締め付けられるような切ない恋や、もう二度と立ち直れないかと思われる失恋、良い友人や、頼れる仕事仲間、おいしいお酒に出会ううち、
人生の理不尽さも楽しめるようになる。
でもそれは、説明することでなく、これから経験して得てゆくものである。
私は今ずるい大人になった自分に満足している。
しかし、子供たちにその思いは伝わらないし、受け付けられないだろう。
『作者の心情が良く現れています。』
こう書くしかない自分が少しさびしい。
10年前の私は、今の私を糾弾するだろうか。
そんな一日。