このプレリュードは、面白い。
さらえば、さらうほど、深くて。そのぶん底に到達できなくて。
ずいぶん時間かかったなぁ。
先日、やっと先生に丸をいただいたところです。
さて、フーガです。
これが、また面白い。
矢代秋雄氏と小林仁氏の対談形式の共著「バッハ平均律の研究1」
の中で、矢代先生が、この曲について
「バッハのプレリュードとフーガの関連は、私は大体ないと思う。
あるようにみえるのは、ほとんど偶然。この変ホ長調は(バッハが意図的に関連させた)
珍しい例なのですよ。だから、この一見不釣合いなプレリュードとフーガは
実に密接な関係が隠されてるいるのです」
と語っています。
矢代先生の「この曲は全体で一曲」というアナリーゼに対して、
終始懐疑的な小林先生も面白いのですが、僕はあえて矢代説をとりたい。
フーガ最後のコーダの中声部なんか、プレリュードのコーダと
双子のようですし。
時間感覚でバッハはこの曲を設計した、
という矢代説は、グールドがモーツァルトのアナリーゼなどに
よく使っていた手法なので、グールドファンの僕としてはとても腑に落ちました。
ただ、僕の先生がグールドよりグルダ、そしてアルゲリッチという人なので、
だんだん感化されていて、「ん?グールド説か?」と思うと、
少し、ノドに小骨がささるようになってきてしまいました。
10年前の僕なら、諸手を挙げて矢代説を喧伝してまわるんだけどなぁ・・・。
だて、一方、小林先生はトリルを入れるための替え手の話ばかりしています。
「ここは、難しい、だがこう替え手をすると入れられる、省略する奏者も多いが、
ここにトリルを入れた方が、ずっと美しくなる。
このトリルは、アッポジャトゥーラで上から入れると情緒的になりすぎる。
また、上からにすると、曲の後半で難しくなってトリルの入らない場所が出てきてしまう。
手の都合でトリルを作るのは本末転倒だが、この曲の場合は偶然にも手の都合が音楽をさらに
良くしている」等々。饒舌かつ、納得性の高い論点でした。
これも、おもしろく、またとても為になる。
僕がやろうとしていた替え手とも共通点が多く、また当然ですが、それより合理的で、
なるほど、先人は、さすがに先人です。
でも、この二人、「そう、そう」とか言いながら、
一貫して噛みあってないんだよなぁ。
さらえば、さらうほど、深くて。そのぶん底に到達できなくて。
ずいぶん時間かかったなぁ。
先日、やっと先生に丸をいただいたところです。
さて、フーガです。
これが、また面白い。
矢代秋雄氏と小林仁氏の対談形式の共著「バッハ平均律の研究1」
の中で、矢代先生が、この曲について
「バッハのプレリュードとフーガの関連は、私は大体ないと思う。
あるようにみえるのは、ほとんど偶然。この変ホ長調は(バッハが意図的に関連させた)
珍しい例なのですよ。だから、この一見不釣合いなプレリュードとフーガは
実に密接な関係が隠されてるいるのです」
と語っています。
矢代先生の「この曲は全体で一曲」というアナリーゼに対して、
終始懐疑的な小林先生も面白いのですが、僕はあえて矢代説をとりたい。
フーガ最後のコーダの中声部なんか、プレリュードのコーダと
双子のようですし。
時間感覚でバッハはこの曲を設計した、
という矢代説は、グールドがモーツァルトのアナリーゼなどに
よく使っていた手法なので、グールドファンの僕としてはとても腑に落ちました。
ただ、僕の先生がグールドよりグルダ、そしてアルゲリッチという人なので、
だんだん感化されていて、「ん?グールド説か?」と思うと、
少し、ノドに小骨がささるようになってきてしまいました。
10年前の僕なら、諸手を挙げて矢代説を喧伝してまわるんだけどなぁ・・・。
だて、一方、小林先生はトリルを入れるための替え手の話ばかりしています。
「ここは、難しい、だがこう替え手をすると入れられる、省略する奏者も多いが、
ここにトリルを入れた方が、ずっと美しくなる。
このトリルは、アッポジャトゥーラで上から入れると情緒的になりすぎる。
また、上からにすると、曲の後半で難しくなってトリルの入らない場所が出てきてしまう。
手の都合でトリルを作るのは本末転倒だが、この曲の場合は偶然にも手の都合が音楽をさらに
良くしている」等々。饒舌かつ、納得性の高い論点でした。
これも、おもしろく、またとても為になる。
僕がやろうとしていた替え手とも共通点が多く、また当然ですが、それより合理的で、
なるほど、先人は、さすがに先人です。
でも、この二人、「そう、そう」とか言いながら、
一貫して噛みあってないんだよなぁ。