一年ほど前の息子は、
「おはよう」も
「ありがとう」も
「いただきます」も
「ごちそうさま」も
「ごめんなさい」も
挨拶はたいてい
「リーチ」
という言葉で表現していました。
ちょっと小首をかしげて
「リーチ」
シチュエーションに応じて、
親が意味を理解してリアクションしてあげる。
そのうち、
「ごちそうさま」が「リーチ」から離脱し、「おーまいたった」になり、
「ごめんなさい」も「リーチ」から離脱し、「ごめんごめん、いーよ」になった。
そうして、「リーチ」という言葉を息子は忘れていった。
チョムスキーの生成文法論の実演を見ているようでもあり、
「分かる」とは「分別すること」という言い古された学習論の実践のようでもありました。
息子へ
そうして君が大人への階段を、
これからも昇り続けていくことだろう。
それは、父にとっては嬉しいことだけれども、
寂しくもあり、切なくもあり、けっこう複雑なんです。
そんな寂しん坊な父なので、
反抗期は、お手柔らかに頼むぞ。
「おはよう」も
「ありがとう」も
「いただきます」も
「ごちそうさま」も
「ごめんなさい」も
挨拶はたいてい
「リーチ」
という言葉で表現していました。
ちょっと小首をかしげて
「リーチ」
シチュエーションに応じて、
親が意味を理解してリアクションしてあげる。
そのうち、
「ごちそうさま」が「リーチ」から離脱し、「おーまいたった」になり、
「ごめんなさい」も「リーチ」から離脱し、「ごめんごめん、いーよ」になった。
そうして、「リーチ」という言葉を息子は忘れていった。
チョムスキーの生成文法論の実演を見ているようでもあり、
「分かる」とは「分別すること」という言い古された学習論の実践のようでもありました。
息子へ
そうして君が大人への階段を、
これからも昇り続けていくことだろう。
それは、父にとっては嬉しいことだけれども、
寂しくもあり、切なくもあり、けっこう複雑なんです。
そんな寂しん坊な父なので、
反抗期は、お手柔らかに頼むぞ。