「不登校の子どもがいる」という話は、本当に身近な状況になった。

学校のあり方を変えなければならない、と、憤りさえ感じてきたが、

好転したという兆しは一向に見えない。

教育者でも親でもない私にとっては、腕押しする暖簾すら見つけられず、

対岸の火事が消えることを祈るしかないのだろうか、と自分ごとに引き寄せられず、

頼りなく感じていた。

 

けれど、この社会の未来を託す子ども達、若者達への教育が大人の責任であるなら、

自分が関与出来ないことはない。と、ある時ふと気づいた。

自分一人の意識を変えることからしか、世界に伝えられることはないからだ。

 

 

「シュタイナー教育入門」は、そんな意識にも力強く応えてくれるものだった。

 

シュタイナーは人間の構造を4つ次元で構成されるとしており、

 1.肉体

 2.生命体(エーテル体)

 3.感覚体(アストラル体)

 4.自我(注:スピ業界で一般に言われるエゴ=自我とは異なるもの。)

教育者は、自分の心を喜びで満たした上で、子供と同じ次元に立つのではなく、

自我の次元から子供の感覚体に働きかけるようにしなければならないと説く。

子供は教育者に畏敬の念を持って学ぶことが重要であるという前提があり、

同じ土俵で相撲をとっていては、友達にはなれても、学びの対象には

なれないってことだなあ、と思い知る。

 

人間とは何か、魂とは何か、

そんなことを本を読みながら、改めて考えを整理し、腑に落としていく。

自己と他者の関係に思いを馳せながら、自分がどのように在るか、ということが、

世の子ども達、若者達への責任を果たすことにもなるはずだと、思えてきた。

日々精進だわ歩く

 

 

高橋先生のことば(抜粋)

 

さて最後に、一般的な教育本には無いだろう言葉がたくさんあった中で、

2点抜粋しておきたいと思う。

 

 

 

ダイヤオレンジ子供であることを一生涯忘れさせないことが教育において重要とし、

幼児のもつ力、童子神についての記載が美しい。

 

 神話の中で繰り返して出てくるこういう童子神の中に、

 人間が今見失ってしまった根源的な力、

 本来人間が自分の中で実現すべき能力、

 しかも現在、人間が実現できずにいる能力に対する

 予感とあこがれの集中的な表現がある

(p32より)

 

古事記やホツマツタエなど、日本神話に出てくる神々の振る舞いに

驚かされることが多いが、このような言葉に触れると、また読み方が

変わってきそうだ。

 

そして、ブラバツキーの著書「神秘秘技」の中には

サナート・クマラは若者(クマラは子供)という意味である、と

記載があるそうで、鞍馬山に残る義経伝説にも幼児の力を感じるとしています。

 

 

ダイヤオレンジ日本のアカデミズムについて

 

 共産主義が権威を持ってくれば、昭和の初めのころ、

 共産主義的な発想が無抵抗にアカデミズムの中に浸透してしまう。

 そこには教養のかもし出す香り高い文化が、ほとんどなかったわけです。

 今でも、大学の中に香り高い文化というものはあまりなくて、

 学会に行きましても、どう質問して相手をやっつけることができるか、

 偉い先生に質問を浴びせかけて、その先生が立ち往生すると、

 自分の腕が一つ上がったといったような、言わば「修羅」のような

 雰囲気があります。

(p44より)

 

振り返れば、大学時代の指導教官に恵まれたことは幸いだった。

昼休みには、教授から教官、院生、学部生が同じ場に集い、弁当を食し、

学問がどのように社会へ還元されていくのかということを

日常会話から感じ取ることが出来る環境の中にいた。

 

卒論発表の際、他のゼミ教官から意地悪な質問やコメントを受けた後には、

私の不備はあったとしても、他分野の論文への質疑の難しさから、

あのようなつまらない質問、コメントしか出てこなかったのだろうが、

卒論生に向かって教官としてあるべき姿勢では無い、と伝えて下さった。

 

教育の場、議論する場、意見を自由に述べる場、

さまざまな場面で、どのような場を作りたいのか、

その場で自分がどのような役目を持ち、働くことが出来るのか。

そんなことを心していきたいと、改めて思い直した。