「神との対話」で語られる「愛で生きること」

 

 

2日前にTOLAND VLOGで「神との対話」を解説した動画がアップされた。

 

「人間の考え、行動、行為の全てが愛か不安かどちらかが元になっている。

 どちらを選ぶかは君ら人間の自由によっている。」

 

と、神が教えてくれている、と。

 

 

前々回のブログ、”愛で生きると決めて、見習いたい愛の存在を見つけた” に

リンクする話だった。

自分の考え、行動、行為が 愛によるものか

             不安によるものか、

それは、自分の心の奥底に聞けばわかるよ、と、そんな話でもありました。

 

この内観は続けていきたいと思う。

 

人生をどう見るか ー愛を手放さないー 

 

今日は、愛で生きることを教えてくれた、もう一人の方の話を書きたい。

 

2年前、映画「銀鏡」で知った監督の赤坂友昭氏。

縁あって、色々と話を伺う機会を持てたのだが、

冤罪により勾留されるなどし、家族が引き離される過去や、

その裁判の間にお会いし、話を聞いていたことすら、

本日アップされたInstagramの記事で知り、非常に驚いたのだった。

 

 

 

映画「銀鏡」が上映される度に、舞台挨拶に出掛けられており、

その話ぶり、内容にまず感銘を受けた。

その後、ゆっくり話を伺う機会があり、

今までの活動内容や会話から感じるお人柄、

物事を見る視座の高さや眼差しの優しさを通じて、

愛が大きい人の言動に触れることが出来たのでした。

 

宇宙存在達の高次元の愛を知った後に初めて出会った、

おっきくて深い愛を持った地球人が赤坂さんだったのです。

私にとっては、「愛を生きる」一つの指針にもなった存在です。

 

 

人生の辛苦の只中に、あの素晴らしい映画の撮影が継続されていたこと

裁判中の御身であった時に、愛に裏付けされた日常を送られていたこと

それらを今日思い知らされて、愛で生きることの尊さを改めて受け取りました。

闇の中にありながら、なんという光を保ち続けられていたことか。

 

 

「この世は我のうつし鏡である」というのは宇宙の真理だと理解しているが、

このように理不尽で、辛く険しい経験をされた話を伺うと、

大変な思いをされてきた方に、「この世は我のうつし鏡である」といった話は

出来るものでは無いな、と思った。

では、この理不尽な世の中に対して、真理をどのように理解すれば良いのか。

やはり真理である。

私が他人事になることなく、集団意識としての私のうつし鏡がそこにある

という理解のもとに、私自身を見つめ、磨いていく他はない、

そう思った。

 

 

 

そうこう考えていると、赤坂さんがInstagramに新しい投稿をされた。

 

「日々の営みも暮らしを取り巻くすべての風景も私たちの心の顕そのもの。」

 

 

なんということでしょう。

自分を例外とすること無く、私たちの心の顕がこの世を作っていると、

辛く険しい話の後に、そのように書き切るとは。

こうしてまた、愛で生きることを教わるのだ。

 

 

 

 

旧暦の新年を、新月の日に迎えましたね。

 

自分軸は愛の力によって立っている。

どんなときも、内なる愛から発する光を立てていきます。

 

 

 

 

映画「銀鏡」情報

 

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