ヨガの教え「非暴力(アヒムサー)」

その教えが厳しすぎて守れる気がしない。


 そう思う人もいると思う。



 

 

かつて私もヨガ哲学を初めて知った頃は

 

あまりに理想すぎるヨガの教えに

「そんなん無理に決まってる」「綺麗事かよ」と絶望していた。

 

 

 

 

 

ヨガの非暴力といえば・・

 

・人や物に暴力的に当たることだけじゃなく

 悪口や文句などの言葉の暴力も含む

(うん、悪口は良くないもんね)

 

・心の中で誰かを罵ることも、非暴力に反すると捉える(え、、そら無理やろ)

 

 

・自分に対しての暴力も含まれるので自分を必要以上に卑下したり、自分を嫌うこともNG

(自分のこと好きになれないのは許して〜)

 

・自分の体を傷つけるという意味では暴飲暴食などもダメ(厳しすぎ〜!)

 

 

 

 

 

そう教えられて

 

そんなん、、、私には無理! 

と、その瞬間、理解することを無意識に諦めて


私の中では、どこか他人事のようにヨガ哲学が存在していた。

 

 

 

 

そこからは何年も

「ヨガ哲学は知ってはいるけど、自分ごとと思えない」

状態が続いていたけど

 

その後もなんとなくヨガを続けて

気づいたら少しずつヨガ哲学の理解もできるようになっていって

 

今ではヨガ哲学が人生の指針になった。

 

 

 

 

今になって思うのは

 

あくまで「非暴力」は理想論でよくて

綺麗事としか思えなくてよかったんや。って

 

 

それが、あの時の自分がいたステージなだけやった。

 

 

 

 

 

非暴力を完璧に守れる人なんて

ほとんどいないし

 

最初からみんな簡単に実践できるなら

そもそもヨガの教えなんていらんし。

 

 

 

でも心の片隅に「非暴力」という理想を抱えて

どうしたら非暴力でいられるか?考えて

少しでも近づけるように意識して生活していく。

 

そのこと自体がヨガなんかもな。

 

 

 

 

非暴力という理想を、斜に構えて

そんなん無理に決まってる!と突き放してた過去の自分も

 

心の奥底では

「非暴力、完璧に守れる人ってほんまにいるんかな?」

「ヨガを続けてたら、そんな自分になれたりするんかな?」

と気になり続けてたんやと思う。

 

 

そうして数え切れないくらいヨガの時間をとって

1日の中で短い時間でも自分の体と心と向き合ってきたから

 

非暴力を守ることの心地よさが腑に落ちてきて

今の自分があるんやな。

 

 

 

そう考えたら日々のヨガの練習って

少し続けたくらいでは何も変わらないように思えるけど

 

見えないくらい少しずつ

1ミリでも1ミクロでも成長していってたんやな。きっとね。

 

 

そうして、あるとき急に

自分ごととして腑に落ちてくるのかもしれない。

 

 

 

そんなことを考えながら

ヨガ歴15年を超えてもつい暴飲暴食している私。

 

今日も修行や〜!




死ぬまで自分の成長を楽しめる、それがヨガなのかもしれない。。