昨日は恩師のメモリアルサービスに参列しました。
アメリカで尾上流の日本舞踊を教えて下さった踊りの先生。
ドラマティックな人生を送られた方。

昨年以来、息子さん家族に伴って、
Wヴァージニアにあるチャールストンへ引っ越され、
それ以来、お会いできずにいました。

先生はギャンブルが大大大好き。
チャールストンには大きなギャンブル場がありますので、
楽しくゲームをされて余暇をエンジョイされているのだろうと思っておりましたが、

脳卒中で倒れ、
それ以来リハビリを続けておられたそうで、
この1月にお亡くなりになってしまいました。

私が着物をこんなに着るほどになったのも、
先生に日舞を倣いだしたのもきっかけのひとつでした。
着物を着るのが楽しくて、いそいそと習いに通いました。



昨日のサービスの息子さんが最後にお話された中で、
とても印象に残ったことがありましたので、
今日はそれを書きたいと思います。

ストロークで倒れ、その後リハビリを始められて以来、
先生はご自分に何が起こっているのか、不安で恐ろしく、
いつも怖い怖いと連発されて夜も眠れなくなり、
息子さんは医療費もかさむなか、
付き添いを頼んで24時間誰かが一緒にいられるようにしたんだそうです。
息子さんは夜の11時から朝の5時まで付きっ切りで。
先生の痛みは半端なく、呼吸困難になられて、
この世を去っていかれましたとのこと。

先生はこの息子さんを伴ってアメリカ人と再婚され、
ハワイ、カルフォルニア、ニューヨーク、ヴァージニアと
転々とされましたが、そのだんな様とも別居。
息子さんが引越しされた時に、先生は息子さんについて行かれました。

母を思う息子が、母を亡くして最初に考えなくてはならなかったのは、
どこにお墓を作ろうかということ。
しかし、母の人生を省みた時に、
「お母さんにはここが家という家がない」ということだったそう。


しかし考えを変えました。
ネガティブな発想をポジティブに変えて、
「お母さんの家はEverywhere!」


そういうことで、アメリカの土葬式ではなく、日本の火葬式にして、
さあ、どうするのかな、灰を海に流すか、山から大地へ戻すのか、
されるのだと思います。

私の人生も、先生と似たり寄ったり。
あちらこちらで生きてきました。
若い頃はお墓のことなど、まして死など考えてもおりませんでした。
しかし、子供ができ、育ち、年を重ねてきますと、
考えずにおられない現実があります。

どこで死にたいか。
誰の傍で死にたいか。

恩師の死に際したことで、私の中でぱちんとはじけるものがありました。
私の中で確実に明らかになったことがありました。

「私は死ぬ時は娘の傍で死にたい」

ということ。

まだ死ぬには何十年もありますが、
年老いて体が不自由になった時は、
娘がどこにいようと、どの国に暮らしていようと、
私もそこにいたいと思いました。
先生もそう思っていたに違いない。

それまでは
娘とは着いたり離れたり、
仲良くしていたいなあ。

そして、
せめて国は違えど、すぐに行き来できる距離に
やっぱりいたいと思うのです。

異国の地で、死に際に、
さぞ不安で、恐ろしかったことでしょう。
何が起こっているのか、何が起こるのか、
何をされているのか、怖い怖いと、
難しい言葉も分からず、薬の名前も分からず、
恐ろしい思いだったことでしょう。

異国で死ぬとはそういうことかもしれません。
日本に帰りたくなりました。


リコ先生のご冥福をお祈りいたします。