
衝撃


人の生死
私と祖父が最後に交わした衝撃の言葉
それに対する最悪な私の対応
出てきます
興味ない方はUターン↩してください
こちらに進んでくださったあなた
ありがとうございます
長文になります
ずっと ずっと 祖父が亡くなって
正確には
祖父と最期に会ったその日から6年3ヶ月
私の心を
くすぶっていた 言葉 なのです。
その 言葉 を紹介する前に
私と祖父のことを少しお伝えします。
頑固で恐いもの知らずの祖父は同じ福岡県内、片道一時間の距離に私たちとは離れて暮らしていました。
私は月1の家族での里帰りお泊まりが楽しみで仕方なかったのを今でも覚えています。
祖父にとって私は初孫で
それはそれは愛情深くたっぷりお金もかけて育ててもらいました。
そんな祖父とのお別れは決まって何とも言えない悲しさと、もっと遊んでいればよかったという後悔に包まれ、車に乗った私は窓から手を出して祖父と熱く強く握手を交わすのが恒例でした。
私が最期に祖父と会ったのは
病院のナースステーション前の四人部屋でした。
数日前にこの部屋の廊下側(ナースステーションの目の前)に移ってきたとのことでした。
母に連れられ入った病室で見たのは
■痩せこけて強い黄疸の症状が出てベッドに横たわる祖父
■手をつけていない昼食のお膳
■無数のエンシュア・リキッドという経腸補助食の缶の山
でした。
私はあまりの祖父の変貌に
かける言葉が見つからず
焦り、実際にかけた言葉を覚えていません。
たぶん、【おじいちゃんえりだよ】
そういったと思う。
すると、おじいちゃんは【おう】と
横になっているのか
座っているのかわからない体勢のまま
太もも辺りを擦りながら言いました。
それから横にいた母が
私の子どもの話をしていたと思う。
そして、そろそろ帰ろうかと母が退出を促したとき
祖父が
【えりちゃん、どうしたら楽に死ねるかね】と
私はそのことばが祖父から発したことにビックリして
あの、いつも強気なおじいちゃんが!?
そんな~!?
咄嗟にその言葉の重みに
耐えきれず、認められず、
『なにいってるの~おじいちゃん』
とあしらってしまった。
おじいちゃんはそれに対してなにも言わなかった。
そして、またここで母が帰ろうと外へ促すのでいつものように握手をしようとした。
すると
【触るな!(がんが)うつるぞ!小さい子どもがおるやろ】と強い口調で握手も頑なに拒んだのです。
私は眼にたくさんの涙を溜めて
立てていた祖父の膝を触ったような
膝だけでも勝手に触ればよかったと願望だけで実際は触っていないような
(記憶が曖昧になってます)
涙を溢さないように堪えるのに必死でした。
とにかく
また来るからが
精一杯でした。
そして、またが訪れることなく
私が冠婚葬祭のため兵庫に行った間に息を引き取りました。
おじいちゃんがしてほしかったのは
◎おじいちゃんからそんなことばを出すほどの苦痛なんだねとその気持ちを受け入れることと
◎どこがいたい?
痛いところを擦る、手を当てることと
◎その苦痛を取り除いたり、軽くすることはできないかなと一緒に考えること薬のチカラを借りることを相談すること
◎今、おじいちゃんが一番望んでいることはなにかなと 共有すること
◎今までの感謝をことばで態度で示すこと
だったんじゃないか
今ならわかる
それなのにおじいちゃんのことばをあしらってしまった。
ずっと悔やんでました。
そして、今、早朝4時に
ふっと頭に浮いた言葉
これはおじいちゃんとテレパシーができたんだと思う。
【えりこ よくきき
今は
戦前、戦後の食料もない、お金もない、仕事もない、厳しい時代とは違う
今を生きるえりこは我慢や辛抱は必要ない
そんなんは俺たちで終わりぞ
どんな生き方をするかは自分で決められる
俺たちが辛抱した分、
やれなかった分、
思いのままに生きていいとよ
ねー えりこ】
おじいちゃんきっと
楽に死ねる方法は
今生にひとかけらの悔いを残さないことよ!
おじいちゃんは悔いがあったんやない?
それを繰り返さないことがのわたしにできる唯一のこと
ねぇ?おじいちゃん?
私に気づくきっかけのことばをあのとき投げかけてくれてありがとう

おじいちゃん大好きよ

月命日の前日
今日はマヤ暦でいうところの
【極性KIN】【絶対拡張KIN】で
宣言に向いている日のようです。
今日気づけたこと
こうして文章に纏められたこと
嬉しいよ

プライベートな長文に
お付き合いいただきありがとうございます

ここまで読んでくださった方がいるから私も一歩踏み出せました

ありがとうございます


五感案内人
~ママのおうち~
なまえのチカラ アドバイザー
いしばしえりこ