母校、境港高校の先輩から「三重に行くなら、ここにも行け」と紹介されるがまま、忍者の町、伊賀市丸柱に住む、長谷さんのお宅へやってきた。
“長谷”と聞けば、ピンとくる人もたくさんいると思うが、そうあの有名な伊賀焼きの長谷園の会長さんである。
鳥羽から近鉄線と伊賀線を乗り継ぎ、そこから車で30分の山の中にどっしりと構えられたお宅。ここは城跡か?と真面目に思ったくらいの立派なお屋敷。なんせ石垣や小さなお堀まである。
親子3世帯が同居しているようだが、それがほとんどわからないほどの広さ。そして家の至る所に焼き物が点在しており、それはまるで美術館から飛び出し、生活の中に溶け込んでしまった美術品のようである。
到着した初日は、イノシシのお肉や、ふきのとうなどの旬の食材を頂き、燻製が自宅でできるという、画期的な鍋でチーズやソーセージなどの料理を頂きながら、遅くまで答志島での出来事や陶器の話で盛り上がった。陶器で出来た手作りのお風呂に入り、曇ったガラスを手で撫でると、大きな鯉が泳ぐ池が見えた。全てに驚かされながら、1日目は過ぎていった。
184年続く伊賀焼きの七代目である長谷優磁(ながたにゆうじ)さん。芸術家でありながら、イノベーターでもある。現在国の登録有形文化財となっている長谷さんの生家。そこでの経験が、長谷さんの陶器作りの精神の基盤を作った。
「家には、少年院から出てきた子供らや登校拒否の子らを受け入れて一緒に生活をした。彼らの人生が食卓を通して大きく変化する様を見て、これだと思った」
私のこれまでの人生は“鍋”にほとんど向き合ったことがなったが、長谷さんの家の食卓は、いつも真ん中にお鍋があり、ご飯や調理もテーブルの上でされる。そこでふと気付いたのが、本来忙しくバタバタ席を外しているお母さんが、ずっとテーブルに座っていることだった。
伊賀焼きの土には、保温や保冷をする力が強い。食事を作って鍋に入れておけば、時間が経っても温かいままで食べられる。そして、鍋はそのまま調理具になり、食器になり、家のインテリアにまでなってしまうのだ。
長谷園で一番の腕を持つと長谷さんが豪語する、川上正志さんから直々に陶器作りを指導してもらった。川上さんの作品はどれも甘ったるくない、絶妙な温かみがあって、すぐに川上さんの作品だとわかる。
カップやお皿などいくつもの食器を一緒に形作った。出来上がりは後日送ってくれるそうで、本当に楽しみだ。
天保3年(1832年)に築窯してから現在まで。様々な時代をくぐり抜けて、今の長谷園がある。鉄が不足した戦争時代は、政府の命令によって陶器化が促進された。陶器は、その時代に合った姿に作り変えられてきている。
長谷さんは言う。
「その時代に人々が欲しいものを提供していくことがクリエーターにとって大切なこと。いかようにも変化していきながら、技術とその時代にあったものを作る精神は変わらずに継承していく」
常に変化していくものと、永遠に変わらないもの。私もこれは常に大切にしていることの一つだ。
毎日当たり前する食事というものとじっくり向き合わせてくれた時間だった。こういった出会いの経験の積み重ねが、次に新しいものを見るときに新しい視点と喜びを与えてくれるのだと思う。
やはり、人に出会うことはやめられない。
三重の旅の締めくくりにふさわしい伊賀での滞在だった。
ERIKO