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昨晩も夕食を食べ終わった後、家族団らんは夜遅くまで続いた。フアン一家とは非常に波長が合うようで、いつまでも話が止まらなくなる。
大体子供たちは先に眠ってしまうので、フアンと奥さんのアンヘルさん、妹のアンへレスさんと4人で話し込む。彼らは話上手でとても聞き上手。いつもは仕事があると思うと部屋に入ってしまうが、それが疎かになってもいいかと思ってしまうほど、彼らとの時間は気持ちがいい。
毎朝通る、アメリカへと続いている線路の周りには、お金の協力をお願いする人たちが立っている。
今朝は小さな赤ちゃんを抱えた女性が私たちの車に近づいてきた。フアンは必ず彼らにお金を渡す。彼女は赤ん坊を抱えてた手に、見慣れた赤色の1レンピラ札を握り締めている。ホンジュラスから来たのだろう。
「ありがとう」と言うのもままならないほど、彼女は疲れきっていた。
今日は、フアンのお父さんである、マヌエルさんが私の面倒を見てくれることになった。マヌエルさんは74歳、40年間政府公認のガイドとして働いていた。車のナンバーも緑色のツーリストナンバーが付いている。ひまわりかマヌエルさんにしか似合わないであろう、派手な黄色のシャツにネクタイをしめ、スーツをビシッと着こなしている。
以前から訪問を予定していた、日墨協会を訪問する。
Fujiyama通りの突き当たりにある広々とした敷地に、事務所、レストラン、商工会議所、日本語教室などの建物がいくつか建てられており、立派な庭もある。
日墨協会の会長さんである、戸田眞さんと、事務局長の仲畝さんに日系移民についての話を伺った。
戸田さんは昭和15年、当時戸田さんが4才だった頃、両親の仕事の関係でメキシコへ渡った。日本は当時、太平洋戦争が始まる直前だったこともあり、家族でそのままメキシコに定住。日立製作所で28年間勤務され、メキシコの日系社会に関しては、彼より詳しい人はいないと言われるほど精通している。
見た目は品があって、どこかの国の大使と会った時のような緊張感を抱かせる風貌だが、やさしい笑顔と語り口調、それに流暢な日本語に緊張が緩んだ。
メキシコへ日本人移民が始まったのは、1842年。国内の物資運搬をしていた栄寿丸は、神戸港を出発し、浦賀へ立ち寄り、犬吠崎に差し掛かった時、嵐に遭遇した。
遭難した13人の乗り組み員は、通りかかったスペインのエンサーヨ号に助けられ、4ヶ月間航海をしたのち、メキシコのサン・ルカスという町へ到着した。
見知らぬ日本人をメキシコ人は手厚く歓迎し、彼らはそこで約半年を過ごす。
日本に帰りたいという気持ちが強まった彼らは、東洋へ行く船に乗るため、マサトランへ移動する。マサトランの市長は、彼らに必要なパスポートやビザを与え、船賃や多額の選別まで渡したのだった。
3年かかって到着した日本は当時鎖国中で、我が国に戻った彼らは慎重な取締りを受けている。その時に残された記録を頼りに描かれた絵は、メキシコについてかかれた初めての鮮明な記録として残っている。
これが一般に知られている日本人がメキシコに来た最初の記録であるが、実はそれよりもずっと前、豊臣秀吉がルソン島(現在のフィリピン)と交易を行っていた影響で、ルソン島に残っていた日本人を、当時ルソン臨時総監であった、ロドリゴ・デ・ビデロがメキシコへ行く船に乗せ一緒に渡ったと、本人が記した記録に残っている。
1609年、ロドリゴ・デ・ビデロを乗せた、サンフランシスコ号が千葉の御宿で座礁し、岩和田村民が救助向かった。
ロドリゴ・デ・ビデロは日本に滞在中、江戸へ出向き、二代将軍秀忠と会見し、翌年には家康を訪問した。これがきっかけとなり、イスパニア、ヌエバ・エスパーニャとの通商が始まる。
日本でキリスト教の普及活動が容認されたのもこの協定によるものである。
千葉の御宿には、メキシコ、スペイン、日本の三国交通発祥記念碑が立てられている。
集団移民が初めて行われてたのは、1897年の榎本移民である。横浜港を出発した36名の男性がチアパス州に移民したが、そのほとんどは契約移民で、定住者は6名であった。
榎本外務大臣がどうしてチアパスの土地を選んだかというのは、フランス人の軍人、ジュネール・ブリュネが、彼に話したメキシコの話に刺激されたのでないかと言われている。
その後、1900~1906年には大量移民が行われた。
メキシコの日本人移民は政策移民ではなく、自由移民だったため、横浜にあるJICAの資料館へ行っても歴史を知ることはできないが、メキシコへ渡った日本人も、他の移民国と同じように、国の発展に大いに貢献している。
後半になると、戸田さんの語り口調はさらに生き生きとし出した。
「アメリカとの国境付近に、エンセナーダという場所があって、そこから40km離れたところに、マネハアデーロという所があります。そこに、茨城県から渡った人たちが“日墨兄弟会社”という会社を設立し、農場や野菜作りを営んでいました。また、それ以前にサンティアゴを本拠地としたMKという漁業会社があって、アワビやエビがよく取れるメキシコで漁業を行っていました。その中に、富田一さんという方がいて、彼は茨城に住んでいましたが、メキシコへしょっちゅう仕事をしに来ていました。1日に取れるアワビの量はおよそ2トンで、1年で約一千万円稼いでいたんです。茨城の日立市には“メキシコ成金”という言葉がありますが、まさにここから来ているのだと思います。富田さんから直接お話を伺ったことがありますが、彼はエンジンなしの帆船で、北周りでメキシコまで来ていたそうで、猛烈な北風で、28日間でメキシコまで着いたと言ってました。今の貨物船でも2、3週間かかりますから、本当にすごいスピードだったと思います。甲板には一歩も出られなかったそうです。こうして漁業を始めた彼らのお陰で、メキシコ人はアワビやエビの取り方を覚え、メキシコの漁業発展にずいぶんと貢献しました」
話終えた後、戸田さんの顔が少し暗くなった。
「しかし戦争が始まると、日系人は敵国財産の没収にあい、ある人が寄せた手紙には“日本へ戻るときには、1000円だけを持って帰った”と書かれていたそうです」
第二次世界大戦時には、2週間以内に立ち退きを命じられ財産を失ったり、パールハーバーが爆撃された翌日に新聞を買いに出かけた人が、そのまま拘束されたりということもあったのだそうだ。
「戦争で苦しんだのは、日本にいる日本人だけじゃないことを忘れないで欲しい」
キューバで出会った日系人の定美さんの言葉を思い出した。
メキシコと日本の外交関係はラテンアメリカで最も古い、400年以上にもなる。
他国で見られるような、新天地開拓といった志を持ってたどり着いた土地ではく、何かに導かれるようにして辿り着いた我々の先人たちと、築いたメキシコ人との絆の物語。全てがバラバラに起こったことのようで、様々な偶然が一本の線のように繋がっている、美しい歴史に出会うことができた。
そして、その物語のカケラは我々の生きる今に続いているのだ。
☆El plato del hoy☆ 今日のご飯
ERIKO