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 ユカタン半島の先端、カンクンに到着した。メキシコは31州と1つの連邦区(首都D.F)からなる、日本の5倍の面積を持つ大国である。
現在アメリカ合衆国である、カリフォルニア、ニュー・メキシコ、テキサス、アリゾナ州は、
1848年の米墨戦争でメキシコが敗戦し、グアダルーペ・イダルゴ条約が結ばれるまでメキシコの領土であり、かつては今の倍以上の面積を持っていた。

 キンタナロー州に位置するカンクンは、
1968年に開催されたメキシコオリンピックをきっかけに、アメリカに対抗する観光地を作ろうという政府の案で作られた、マイアミに良く似た観光地である。観光地化する前は、港が3港あるのみのマングローブ地帯であり、多くの蛇が生息していることから、マヤ語で“蛇の巣”という意味を持つ。
現在ホテルが密集している地域はもともと島であり、
3本の橋で本土と繋がっている。近くの湖にはたくさんの野生のワニが生息しており、このような点もマイアミに似ている。

 6時に起床、ヨーグルトを朝食代わりに流し込み、ツアーバスに乗り込む。この旅始まって以来の他の日本人観光客との混合のバス移動である。カンクン周辺は驚くほど日本人観光客が多い。日本食屋も多く、まるでアメリカに来ているようで、メキシコらしさを感じるにはほど遠い場所であろう。

 今日はマヤ・トルテカ文明が融合した、チチェン・イツァー遺跡を観光し、メリダで
1泊する。
遺跡までの道のりは、ガラガラの高速道路一本道。両側に生える木々も高さがほとんど一緒である。ユカタン半島一帯の土地は、もともと海底が隆起してできた石灰岩質の土壌で、地中の土の深さが浅く、木の根がある一定の長さまでしか張らないため、木々の背の高さが均一になるのだそうだ。水分をよく吸収する土壌のため、川ができる前に地中にしみ込んでしまう。もちろん山もない。



             メソアメリカ最大の球戯場



チチェン・イツァ遺跡は、ユカタン州のメリダの東約120kmのところにある、世界的に有名なマヤとトルテカ文明が融合した後古典期マヤの遺跡で、世界遺産にも登録されている。

 入り口にはすでに多くの観光客が詰め掛けており、日本人ガイドの姿もちらほら見える。ハイシーズンの時は、一日2万人の人たちが訪れるのだそうだ。
私は日本人グループを離れ、スペイン語のガイドさんと一緒に回る。ルーセルさんは36歳、経験豊富なガイドである。
入り口を入るとすぐ、見事な修復が施された神殿が現れた。

 チチェン・イツァーはマヤ語“泉の口”を意味し、
200年以上に渡って芸術、商業などの中心地であった。
神殿は巨大なカレンダーとなっており、秋分と春分の日には、火と太陽の神様である、“ククルカン”と呼ばれる羽の付いた蛇(グアテマラではケツアルコアットゥ)の頭をしつらえた階段の側面の影が羽の形となって見える。敷地内には、サックベー(白い道)や要塞跡、セノーテや球戯場を見ることができる。

豊穣の神に祈りを捧げるための宗教儀式として行われていた球戯は、手を使わず、上腕や腰やラケットを使用してボールを打つ、現代のサッカーの元祖のようにも思える儀式である。これまでにもマヤの遺跡でたくさんの球戯場を見てきたが、ここまでの広さと規模のものは初めてで、メソアメリカ最大なのだそう。



                    セノーテ

セノーテは、ホンジュラスのコパン遺跡を発見したことでも有名な、探検家のジョン・ロイド・スティーブンスによって調査され、中から見つかった金、銀などはアメリカへ持って行かれた。

 ちなみに、彼の旅の集大成の本ともいえる、「中米・チアパス・ユカタンの旅 マヤ遺跡探索行
183940」を日本語に翻訳したのは、グアテマラの染織家、児島英雄先生の奥様である、児島桂子さんである。
先生の自宅へ行った際に見せてもらったが、大変厚みのある本で、「訳している時、彼のユーモアのセンスに何度も笑ったわ」と桂子さんが話していたのを思い出す。
先生は私のことを覚えているだろうか。





チチェン・イツァ遺跡は以前から有名であったが、その名が世界中に知れ渡るようになったのは、97年にオペラ歌手のルチアーノ・パバロティーがコンサートを行ったきっかけが大きい。他にもエルトンジョンやサラブライトマンなどもコンサートを行っている。

 ツアー同じみのショー付き、ブッフェレストランで昼食を取った後、メリダへ向かった。小雨が降り始め、うとうとして眠りにおち、目が覚めるとコロニアルな町並みが窓の向こうに見えた。
数時間の遺跡観光は、元気な太陽と湿気と暑さで想像以上に体力を奪われる。
メリダの町は雨が降り続いている。

ERIKO