
ほぼ毎日通った家の前のマーケット
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予定より2日早くグアテマラへ戻ることになった。理由は初めて女性を家に招いたということで、奥さんのアマンダさんが嫉妬にも似た混乱を抱いてしまったことである。3人でよく話し合った結果、少し早くケツアルテナンゴを後にしようということになった。こう言うと、大げさに聞こえてしまうかもしれないが、私達の仲は極めて良好である。
アッハキッヒ(シャーマン)であるエドガーさんとは毎日食事テーブルのイスに腰掛けて、8時間以上は色んな話しをした。その大半の時間は私が話しを聞くことが多かった。
彼の右手の小指がないことに気づいたのは3日目を過ぎた頃だった。質問しようものなら快く答えてくれる確信はあったが、私はあえて聞くのをやめた。
会話の内容の大半はマヤの歴史や宗教についてだった。ナワール(数)の出し方や儀式のこと、それを私達の人生にどう生かしていくかなどが主なテーマで、彼の人生について知ったのは最後の日だった。
『明日は朝6時にテーブルに集合しよう』
最後の日、5時59分に部屋を出ようとドアノブを握ったのと同時に、エドガーさんが部屋をノックした。いつでもきっちりした人である。
『昨日、実松克義教授の“マヤ文明 新たなる真実―解読された古代神話“ポップ・ヴフ”の本に書かれていたエドガーさんのページを読みました』
そう話すと彼は小指のない右手を開いて見せた。
『気づいてた?』
『もちろん。でもあまり気になりませんでした。人は傷が見えるところにある人と見えないところにある人、それぞれいますから』
『僕の実家はケツアルテナンゴでも大手のパン工場を経営しており、大変裕福でした。この小指は16歳の時、工場の機械に挟まれて失ったものです。その後、膀胱の病気にかかりましたが、原因は結局分かりませんでした。
サン・カルロス大学で経済学を学び、アメリカの大学でパンの製造技術を習得し、帰国した後は兄弟と一緒に事業を引き継ぎました。その後、結婚し、2人の子供ができ、全ては順風満帆でした。私の人生が狂い出したのは妻が突然死んでしまってからです』
エドガーは再婚するが、新しい妻と子供の関係が悪く離婚するも、離婚訴訟の裁判にかかり、全財産を失ってしまう。
『僕の両親は生粋のキチェー人でした。小さい頃からマヤの古い伝統に関心があり、どん底の状態に陥ったとき、マヤのアッハキッヒになろうと決意しました。そして、背負っていた苦しみの意味を理解し、重たい荷物を下ろすことができました』
いつも陽気な彼からは想像もつかない過去である。
『僕はもともと嘘つきで、女好きでお調子者です。でもその性格は自分自身に問題として返ってきます。ある時、自分の道を変えようと強く決心しました。それはアマンダと結婚を決めたときでした』
ここには毎日40人以上の業者を含めた人達が出入りする。エドガーさんは毎朝ここに来る労働者達のわずかな表情も見逃さない。
『何かあったのかい?』
14歳くらいの男の子だろうか、よく見ると不安げな面持ちで仕事をしている。エドガーさんは彼を抱きしめ話しを聞く。こんな光景を私は毎朝目にした。彼の心配りと洞察力は、どん底から這い上がった彼の人生が与えてくれた財産である。
『あなたにプレゼントがあります』
エドガーさんは私の名前が難しくて覚えられないのか、いつも少し戸惑った後に、“あなた”と言う。
『この本は、マヤの賢者ビクトリアーノ氏が書いた本で、こちらはマヤのシャーマン40人がポップ・ヴフを解読した、世には出ていない資料です。これ以上の解読書はこの世に存在しないでしょう。手を出して下さい』
エドガーさんがゴツゴツした個体を私の掌に置いた。キッチンに入るわずかな光に反射して神聖な光を発するクリスタルだった。
『私にとってもとても大切な物です。何かあったら守ってくれるでしょう』
私はエドガーさん夫婦から貰ってばかりだった。たくさんの知恵と知識、学び。そして一番大きなギフトは彼らの愛だった。
グアテマラの家に戻ると、私の心はすっかりと落ち着いて、朝日で温まったような柔らかな何かに包まれた平穏を感じる。
私はこの数日間、集中した心の整理をしたのだと気づいた。人生に起った数えきれない出来事に時間をかけて向き合い、未来に向けての道を展望した。
リックを背負い出す私に、エドガーさんは、『これだけ持って行きなさい』とある言葉をゆっくり語った。
『Tuve un esposo, un amigo, un amante y un compañero,y fui su mujer.』(旦那であり、友達であり、愛人であり、パートナーであった。私はその人の女であった)
エドガーさんのお母さんが最後に語った言葉である。私は生まれて初めて家族を持ちたいと思った。