
APROVACAの責任者、ラウラさんと孫のダニエル君
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土曜の朝、休日のない蘭センターはいつものように朝8時前に扉が開く。ビビアナさんと朝食を取り、パナマ行きのバス停まで送ってもらった。バス停にはラウラさんも見送りに来てくれていた。
『今度はいつ来る?』
この質問の返事には毎回口ごもってしまう。社交辞令を言うのも嫌だし、『パナマに呼ばれたら来ます』と笑顔で答えた。
中型のバスはほぼ満員で、荷物の多い私は運転手の配慮で広々とした助手席に座らせてもらった。
これから蘭を見る度にこのセンターの人達の笑顔を思い出すだろう。私にとっての蘭は花を通してみる、エル・バジェの人々の姿である。
想像を遥かに越えた巨大なバスターミナルに、先日エル・バジェまで送ってくれた松井さんが迎えに来てくれた。彼女に会うのは2回目だが、なんだか昔の親しい人に会うような気がするのだ。
ターミナルで日本人のバックパッカーらしき男の子を見かけた。私には地図を片手に重たい荷物を背負いながら旅をすることなんて到底できっこないので、彼らのような人達をみる度に感心してしまう。
まだパナマ運河へ行ってないことを話すと、松井さんは『良かったらご案内しますよ』と、車を走らせてくれた。
ミラフローレスにある運河閘門ビジターセンターと博物館では、運河建設の歴史と運河の仕組をみることができる。
大西洋と太平洋を結ぶという夢のような航路建設のアイデアが16世紀初頭に出されてから、1914年に工事を終了したパナマ運河。運河建設には実に多くの人々が関わってきているが、その中に建設に深く関わった青山士(あきら)という日本人がいる。
青山氏はガツンダム(太西洋側)の測量主任から昇格し、最後は中央壁先端アプローチ壁の主任設計技師となった人物で、1911年の運河完成直前に日本へ帰国してからも、パナマで得た経験をもとに、荒川放水路の岩淵水門を始め、多くの治水事業に功績をあげている。
日本へ帰国した表向きの理由は休暇となっているが、第二次世界大戦が始まる前、パナマ運河建設が日本の勝敗を大きく分けると噂され、設計に深く関わっていた青山氏へ各方面からの圧力がかかったためとも言われている。
元海軍大佐、軍事評論家であった水野広徳は、日本の敗戦理由はパナマ運河建設にあったと、著書『次の一戦』に記している。
また構想を描いた水野に対し、実践を行った海軍軍人の秋山真之は共に愛媛県出身であり、日本で一番大きな今治造船会社もあることから、パナマと愛媛の今治市は姉妹都市となっている。
毎年1万4000隻以上の船が行き交う運河はまさに世界の人と物が交差する重要な地点である。現在は運河の拡張作業が行われており、今の所2015年に完成予定なのだそうだ。それによって日本の経済にも変化が訪れるだろう。
太平洋と大西洋を繋げるという夢から始まった運河。何かを達成するのに一番大切なのは、まず遠慮なく心に夢を描くことかもしれない。
昼食に松井さんオススメの韓国料理屋で1年振りのスンドゥブを食べた後は、パナマ市の次なる観光スポット、La Calzada Amadorへ向かった。
アマドール車道は、運河建設の際に掘削された、列車の長さにすれば地球4週ほどにもなる1億5290万米以上の土石の一部を使って作られた、太平洋に浮かぶ4つの島とパナマ市を結ぶ車道である。車で走ると左右に広い海が見渡せ、とても開放的である。おしゃれなレストランも立ち並び、近代的な雰囲気と開放度がアメリカを思わせる。
湿気の多いパナマ市の気候では、なかなか散歩という気軽なことができない。1日の終わりには暑さとクーラーの疲れがどっと押し寄せる。
今日の観光は松井さんのご好意がなければ決して実現しなかっただろう。松井さん、本当にありがとうございました。
家に帰るとラカショ一家もヘトヘトに疲れていた。帰る場所があること、帰ると喜んで迎え入れてくれる所があるというのは、決して当たり前のことではない。
ERIKO