
休憩中のアメリカ人登山団体
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酸素を探し回ってレストランに入ると、知り合いがしゃぶしゃぶを食べているという奇妙な夢とアメリカ人団体の騒がしさでまともに睡眠できずに23時に起床した。
カロリー高めの軽食を取り、イタリア人のルーチョと話をする。ルーチョはナポリ人で、アコンカグアやチンボラソなどへも登頂しているベテランの登山野郎である。眠れなかったのは私だけではなく、ウィリングトンさんもルーチョも他のガイド達もみんなそうだったようだ。
喉の腫れは悪化していて唾を飲み込むのも痛い。咳が出るし、微熱もありそうだがつべこべ言っても出発の時間は迫っている。
夜中12時、私たちは最後に山小屋を出た。小屋には先に出発した何人かのアメリカ人たちがすでに下山していて寝袋にくるまっている。
キトの夜景がオレンジ色に染まっている。
昨日散歩で来た5,000m地点からCrampones(アイゼン)を付ける。私は、アイゼンはもってのほか、雪山を登るのも初めてである。固い氷の上にアイゼンの牙がしっかり噛み、一歩一歩着実に進んでいく。
今回は携帯用の酸素は持って来なかった。ウィリングトンさんに相談したら、『酸素に頼って登るくらいなら、遠くから山を眺めている方がいい』と言われたからだ。その変わり水をこまめに補給する。
5,200mを越えるとクレバスだらけになる
お互いの体にザイル(ロープ)を巻き付ける。いくつかのクレバスは飛び越えて渡る。
『ここはPiqueta(ピッケル)を使って登るから、見てて』
ウィリングトンさんは90度の氷壁をピッケルを噛ませてよじ上る。
まじか・・・
できるわけないと弱音を吐きそうになったが、下を見ると真っ黒なクレバスが口を開いている。やるしかない。生まれて初めて使うピッケルを氷にしっかり噛ませ、無我夢中でよじ上った。空には見事な三日月が自分のほんの近くの距離にある。
永遠に急な登り坂が続く。遥か遠くでは、ヘッドライトがちらついている。咳をしていたせいか肺が痛みだし、何度も嘔吐を繰り返す。さらにはひどい眠気に襲われ始めた。“寝たら死ぬ”ということしか頭にない。
ウィリングトンさんは何も言わない。それが本当に助かった。いちいち気にされては私も気を使ってしまうからだ。手が感覚を失い始めていたので、必死に動かす。何メートルか進むだけで息が切れ、立ち止まる。
『もうすぐ太陽が昇るから』
頂上が見え始めた地点で太陽が昇った。私は雲の遥か上にいた。遠くに見える名も知らない山が雲から頭を出している。標高5,600mのご来光はオレンジの光の集合体だった。光が射すと、歩いていた道や周りの景色が露になる。一歩踏み外せば谷底へという場所を歩いていたんだと気づく。
頂上地点で2人の姿が見えた。ルーチョだろう。あそこからは一体どんな景色が見えるのだろうか。私はへたれ込み、立ち上がることさえどうしようかと考え込むほどになっていた。
『Cuando estas lista, vamos』(準備ができたら前に進もう)
ウィリングトンさんはここまで水も飲まなければ一度も休んでいない。
私は前に進むことにした。標高5,700m、頂上までの最後の登り坂を前にして、天候が一変した。ホワイトアウト。1m前を進むウィリングトンさんの姿さえ見えず、小ぶりの雹が全身を叩き付ける。おまけに私の肺は息をする度にズキズキと痛んだ。
『Vos decides, si queres subir, vamos, sino bajamos』(エリコが決めるんだ。登るなら登ろう。下りるなら下りよう)
そう話すウィリングトンさんの顔さえ霧と雹で見えない。
私は下山を決意した。登ることはできても自分の力で来た道を下りられないと思ったからだ。頂上は目の前なのに背を向けなければならない。苦しいのか悔しいのかわけの分からない涙が出る。
下山中も嘔吐は止まらず、激しい風の中に立っているのさえままならず、風に任せるようにして幾度となくしゃがみこんだ。
3時間後、山小屋が見えた時は嬉しさより、あそこまでもつかどうか気持ちをコントロールするのに精一杯だった。
山小屋に入ると、ルーチョが先に着いていた。
『頂上は悪天候で何も見えなかったよ。あの時間に引き返して君らは正解だったよ。上がっていたら今頃戻って来られなかったかもしれない』
何時に山小屋に着いたのか記憶にないが、私は寝袋で仮眠を取った。私達が山小屋を出た後も、アメリカ人団体はまだ下山していなかった。コトパクシは灰色の厚い雲に覆われている。あの嵐の中でどうなっているのだろうと想像すると目眩がしそうになる。
登山中、カメラをポケットから出す作業が非常にしんどく写真を撮る余裕さえなかった。下記の写真は太陽が現れたとき、這いつくばりながら死ぬもの狂いで収めた写真である。
しかし私の記憶には一歩進む度に変容する美しい景色と自然の強さが刻み込まれている。今回登頂とはならなかったが、コトパクシにいられた2日間は私にとって長く美しい時間であった。
ERIKO