
神戸港から西尾さんが出発した時の集合写真
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本気になれば、不思議な力が働きだす。
昨日どうにか日本人移住者とのコンタクトが取れないかと、手当たり次第電話をかけまくった。
諦めなかった甲斐があってか、西尾孝志さんという日系人移住者の方に辿り着いた。今日はもともとお昼から別のアポが入っていたので、なんとかお願いして朝早くから家にお邪魔させてもらえることになった。
ハイヤーを手配し、サントドミンゴの北部向かう。
到着するとすでに西尾さんはマンションから出て、私と家族のティムさんが来るのを待ってくれていた。
笑うと目がくりっとする素敵な人だというのが初めの印象だった。奥様の洋子さんも日本語が流暢で、もうとっくに還暦を過ぎているとは思えないほど若い。リビングのテーブルに移住に関する本を並べて準備していてくれた。
ドミニカには日系協会が2つあり、西尾さんはその内の“日本ドミニカ友の会”の会長を務められている。
横浜港からぶらじる丸で28家族、185人の入植者がドミニカの地に降り立ったのは1956年7月。その後も続く移住に土地はなくなり、ドミニカ政府が移住の停止をかけたのにも関わらず日本政府は3次、4次と移民事業を続けた。
やがて土地はなくなり、後から来た移住者達は、人間が住むには過酷な場所で生き延びていかなければならなくなった。
“別の世界に旅立ち、明日にでも広大な耕作地を持ち、農業開発ができる”とうたっていた移民募集は、一体なんだったのかと思えただろう。
ドミニカへ移住したほとんどの人達は、北海道、福島、鹿児島、山口などで農業を営んでいた。他の移住地と違うのは、漁業移民という海をフィールドにした移民が行われていたことであろう。
突然にも関わらずお会いしてくれた西尾さんは広島出身、奥様の洋子さんは島根県の出身である。2人とも2次移民で、西尾さんは14才、洋子さんは13才の時にコンスタンサというドミニカの中央部に位置する町に移住している。
『私が来たときは、小さな家でしたが、電気も水道もありました』
西尾さんは優しく話すが同時に強い意志が伝わってくる。
洋子さんがコーヒーを入れてくれた。ドミニカのコーヒーはコクがあって、いつどこで飲んでもドミニカ太陽のように力強い味がする。
しばらく歴史の話を聞いたあと、ボリビアの平良さんが気にかけていた山中さんについて質問した。
『山中さんという方をご存知ですか?』
すると考える間もなく、
『はい、山中さん知ってますよ。今ダルボンという所に住んでらっしゃいますよ』
私はボリビアの平良さんがとても気にかけていたことを話した。すると2人の顔が少し曇った。
『実は山中さんは15年ほど前に、精米機の機械が壊れて修理をしている最中にその機械で腹部が切れて、病院に運ばれる前に出血多量でなくなられたのよ。精米屋としてとても成功してらした方だったんですけどね』
平良さんの山中さんの話をしていた時の昔の戦友を懐かしむような物憂げな表情が浮かんだ。
伝えたら悲しむかもしれない。でも互いに夢を膨らませながら海を越え、ドミニカで降りた友がどういう人生を送ったかを知るだけでも平良さんは安心するかもしれない。奥さんはまだ元気で子供さんもお孫さんもいるそうだ。
これまで回って来た南米の各国で、様々な歴史を持つ日系社会に触れてきた。その中でもボリビアで会った1次移民の平良さんとの出会いは私の心にずっと残っている。
今こうして、何十年の時を経て、平良さんが気にかけていたドミニカの山中さんの消息を掴むことができた。私にとっては、もはや形もない、平良さんと山中さんの見えない心の結びつきに立ち会った瞬間でもあった。
昭和31年から昭和34年までの間に行われたドミニカ共和国への移住事業については、実施期間全般を通じ、入植先に関する事前調査や情報提供が適切に行われなかったなどの事情により、移住者は生活の立ち上げに当たって多大な困難に直面しました。その後も、同国社会の著しい混乱や全土にわたる自然災害の頻発といった不幸な事情もあいまって、移住者の方々には長年に渡る苦労を余儀なくされました。私は、移住者の方々が苦境を乗り越えて努力を重ね、我が国とドミニカ共和国とも友好関係の発展に寄与されてきたことに深い敬意を表します。・・・・ 内閣総理大臣 小泉純一郎 (ドミニカ共和国移住50周年記念本“今、生きてここに在る”より
『今ドミニカで食べられるようになった野菜やお米も、日本人が普及させたんですよ。人参売るときは、こうやって食べるのよとかって、料理の仕方を教えたりしながら』
日系人の努力の結晶は今のドミニカに欠かせないものとして生き続けている。今年は移民船が到着したサントドミンゴ港のZona Colonial(コロニアル地区)に家族の像が建てられる。そして来年には各国から移民者が120名ほど集まる交流会が行われるのだそう。
『私が協会の名前を“友の会”にしたのは、日系人だけでなくドミニカ人も含めて親睦を深めるという意味でそういう名前を付けたんです』
日本人であるというだけで現地の人から歓迎される土台を作ってくれたのは、紛れもなく私たちの先祖達の勇気と頑張りのお陰なのである。
西尾さん夫婦と話したのが数時間だったが、彼らの親切心にお別れの際、胸が熱くなった。『来てくれてありがとう』そう言って、彼らは車が見えなくなるまで手を振り続けてくれた。