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日本では9月17日は敬老の日。遠いブラジルでもお祝いが行われた。
中国地方の5県合同で行われた敬老会は、77歳以上の方への記念品の贈呈と、鳥取県のしゃんしゃん踊りや子供の歌の披露などで会場は盛り上がった。余談だが、鳥取のしゃんしゃん踊りは、鳥取県人会だけでなく日系社会を代表するポピュラーな踊りである。
大勢のテーブルに座っている人達は、みんな日本人の顔つきなのに、ポルトガル語で話をしているのでなんだが不思議でしょうがない。
鳥取県人会会長の本橋さんが時間を設けて下さり、私の紹介までさせて頂いた。
敬老会に参加したあとは、第10回目となる沖縄フェスティバルを見に、Villa Carraoまで足を伸ばした。
サンパウロでお世話になっている日系人のクラウディオさんが、お祭りを紹介してくれた。
沖縄フェスティバルは、もともとブラジル社会から孤立傾向にあった日系社会を、日本の文化を通してブラジル人にも知ってもらい、お互い理解、交流できる場を作ろうということがきっかけで始まった祭である。
出店には、たこ焼き、焼きそば、お好み焼き、かき氷などの日本食屋台が並び、約2万人の人達が詰めかけた。
野外に設置された特設の広場では、琉球の踊り、阿波踊り、空手、盆踊りなどが次々と披露された。
ブラジル沖縄県人会会長のヨナミネシンジさんの所へ挨拶に行くと、彼は私の目をしっかりと見ながら沖縄について語ってくれた。
『今、日本は、家族や人との繋がりから孤立していく傾向が多いね。個人の部屋を持つ時期も、家を出る年齢も早い。でもブラジルは未だに若者もおじいちゃんやおばあちゃんと住んでる。だから心の優しい若者がたくさん育っている』
もっと話を聞きたいと思ったが、彼の元へはひっきりなしに人が訪ねて来たので戻ることにした。クラウディオさんは、大先輩のシンジさんをまるで同級生の友達にするように、腕を回して肩を叩いた。
『Shinji é meu gran amigo』(シンジは僕の大事な友達)
『明日時間があったら、県人会の方に行かせて頂けますか?』と私が聞くと、シンジさんは『いつでもいいですよ』と優しく返事してくれた。
握手をしようと手を出したが、シンジさんの右手は膝の上に乗ったままだった。シンジさんの目はほとんど見えていなかったことに気づいた。
そして今日、約束通りリベルタッジにあるブラジル沖縄県人会を訪ねた。
ブラジルには沖縄県人会の支部が44つあり、シンジさんはその本部の会長さんである。ペルー、アルゼンチンを始め、ブラジルの日系人の約70%は沖縄からの移民者である。
真っ白いカバーがかかっているソファーのイスに座ると、さっそくシンジさんは緑のクリアーファイルを取りだして話を始めた。
ファイルに入っていた資料には、図形と数字、宇宙の写真などが入っていた。
沖縄の歴史と人間の歴史。
個人でいることの恐怖から人が集まり、相手を思うことで愛情が生まれた。災害が起ったことで、人々は海や天を見上げて祈るようになった。
沖縄のお墓の埋葬と女性との深い関わりについて。
49日がどうしてこの数字なのか。
日本企業がブラジルへ来て、ダメになってしまう理由。
どれもこれも興味をそそられる感動的な話ばかりだった。
その中でも私が一番感動した話を紹介したい。
昔は日系人どうして結婚していた人達が、今は違う人種と結婚する人達が多い傾向にある。きっと何十年後かには、顔も肌の色も日系人からかけ離れたものになるであろう。それでも彼らは、日本人の名字を引き継いでいく。
人生の道の途中で自分のルーツはどこから来たのかと思った時に、必ず自分たちの先祖について思いを巡らせる日がやってくる。
その時に、自分の先祖に近い場所で感謝できる場所をと、シンジさんは、位牌代わりに線香立ての灰の入ったカプセルを管理する場所を、ジアデマ地区のブラジル沖縄文化センターに作ったのだ。
『遠く離れた日本で、自分たちの先祖・子孫を思って線香をあげていた先祖達がいる。その線香立ての灰をブラジルに持ってくることにしたんだ』
そのカプセルには、移民して来た船の名前と日付、そして家族の名前が刻まれている。
『僕はこれまでどんなに苦しい思いをして来ても、一生懸命命を繋いでくれた先祖に感謝することができてやっと、日本人がブラジルに移民してきた意味が生まれるのだと思っている。世代がどんなに変わっていこうとも、先祖に感謝できる場所を作りたかった。どんな宗教よりも家族が大事なんだよ』
シンジさんは最後まで教えてあげているというような態度を取らなかった。同じ目線で友達みたいに話してくれた。
若い世代の子たちに、『シンジ』と言って慕われるのがよく分かる。
『縦ではなく、横に並んでみんなで助け合うのが一番楽しいよ』
私はシンジさんの右手を取ってさよならした。
線香の立ての灰の入ったカプセル Kasato Maruと書いてある